2012年8月25日土曜日

秋近し

 空の色 雲の形はあきめいて
    左手かざして 幸祈らん

 戦争は 表立っては見えないけれど
    周囲はみんな 常在敵軍

 世渡りの むづかしいことが分かるのは
     還暦すぎて ほんものになる

 世の中は 荒れに荒れたり一人ずつ
    心おちつけ 前へ進もう

 青い空 光る海きらり沖あいの
    小さな船に 夕陽落つ

 地球儀を くるくるまはして考える
    世界の中で 輝けにっぽん

 空青く 雲ひとつなくじりじりと
    汗ぬぐいつつ あら一輪の花

 見あぐれば もう秋近し夏空の
    色うすれかけ そよと風吹く 








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2012年8月18日土曜日

8月15日は特別な特別な日

今年は、オリンピックがあった為、
8月と云っても戦争の事については
例年より情報が少なかったと思う。
又、一年経つ毎に時間が過ぎてゆくので
67年前の事となると、知らない人が
大部分になってしまった。

私は、生まれた時から日支事変が起こっており
太平洋戦争は、小学校2年生の時にはじまり、
敗戦は小学校6年生の時。
瀬戸内海の穏やかな町に住んでいたけれど
防火用水を各所に準備、空き地に穴を掘り、
空襲警報が鳴ると、その穴ぐらへ
家族全員もぐりこんだりしたので、
忘れざる記憶がいっぱい。

私は、終戦とは云はず、
ずっーと敗戦の日 8月15日
60年間表現してきた。

何が終戦ですか!
大敗した日を ” 敗戦の日 ” と云わずして
どんな言葉があるでしょう。

去る、8月15日の夜、
NHKが【 終戦 】というタイトルで放送しましたが
私の知らなかった事も沢山あって、
胸を熱くして、涙を流しながら泣きながら
テレビを観た。
私が最近、テレビの前で一歩も動かず
観たのはこれが多分ここ10年間位の間にこれだけ。
たった一度だけだと思う。

兵隊だけを送りこみ、銃も剣もなく、戦争用具は何もなく
更に食物はいっさいなし・

何でもいいから、ミミズでもよいから欲しいと思って
隊から動くと、即、銃殺であったらしい。
日本の軍人は、何だったのか。鬼か邪か。
そんな風に死んだ人、
食物がなくて死んだ兵隊の肉をちぎって食べたとか・・・。

大東亜共栄圏とか云って、満州にまで手を伸ばし、
南はニューギニアまで。よく拡げたものだ。

私は、東京裁判はなまぬるいと思う。
まして、その形で死刑にした人間の魂は
靖国神社からはずして欲しい。

「靖国神社で会おうよ」と云って
真剣に出征して行ったうら若き青年がかわいそうだ。
軍部が政治をとったら国は亡ぶ。

現総理にしても、消費税にばかり政治生命を
かけるのではなく、
日本国を守るために本当の命をかけるべきだ。
でなくば、総理大臣なんて価値なし。
命をかけて日本を守る人に
一刻も早く交替してもらいたい。




『日本人なら知っておきたい!太平洋戦争』 学研 ¥680





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2012年8月9日木曜日

私の広島

 広島市へ原爆が投下されたのは、
昭和20年8月6日午前8時15分。
一つの市が、丸ごとなくなってしまい、大勢の人が死んだ。
又、病気になったまま亡くなっていった人もいた。
当時の事を知っている人は、日本国民の中でも
もう、1割くらいかなと思う。
随分、昔の事のように思うけど、
日本の歴史の上では、大変重要な事件であった。

私は、幸いにして四国 に住んでいたので
何の被害も受けてはいない。
しかし、毎年8月の初めになると、
広島・長崎の原爆の日は、必ずやってくる。
そして、ニュースとして扱われる。

なぜ、ここまでくるまで白旗を上げなかったのか?
沢山の犠牲を出し、なぜこんなところまで戦を
進めたのか?腹が立つ。

私は、毎年8月15日は、終戦の日ではなくて
” 敗戦の日 ”
として、私なりに祈りを捧げて来た。68年間。

私には、原爆の被害はなかったが、
その前年、昭和19年8月に広島の駅で
父と永遠の別れをした。

母・祖母・上の妹・下の弟、そして私と5人で
広島へ面会に行った。
電報が来て、準備もそこそこに弁当だけは
しっかり造って5人は列車に乗り込んだ。
それから、米を持って、米は旅館へ。
下の弟は1才。母の背中にずっと背負われていた。

指定された旅館で待っていると、まもなく父がやって来た。
「お父ちゃん」妹がとびついた。
私は、父の顔を見て、笑っていたので安心した。
母も祖母も涙を流す。
下の弟だけがキョトンとして赤ちゃん座りをしていた。

あぁ、あの瞬間のあの光景は、忘れる事が出来ない。
旅館と云っても、食事はほとんどなく 、
持参した弁当を拡げ、父が、おいしそうに食べているのを
私は、じっと見ていた。
ふるさとの味、祖母が懸命に作った巻きずし、
煮魚などなど。

父は、下の弟と別れて1年位経っていただろうか。
「敏延よ。父ちゃんだよ。こっちへ来い。」
と何度云っても、唯、顔を見ているだけで
近寄ろうとしない。無理もない。
別れた時は、生後10カ月。
父だと分かるはずがない。
父が、少しずつ寄ってきて、扇子の先で
「父ちゃんだよ、敏延。」と何度云っても、
唯、じっとしていた。
そして、父の手に持っていた扇子の先に
一寸さわって、父の顔を見て
後ずさりした。

父は抱きたかったのに、下の弟は全く動かない。
そうこうしているうちに、食事も一段落した時、
祖母は、帰りの切符を並んで買わなければならない
と云って席を立った。
大きな蚊帳の中に布団が敷かれ、
私も妹も弟も疲れてしまったのと、
父と会えた安心感で、多分眠ってしまった。
父と母の話声もかすかに聞こえてきたが。
祖母は、夜明け近くに切符を持って帰って来た。
「そんなにかかったの?おばあさん。」
と私が云うと、
「大勢だもの、時間はかかるよ。」
と答えた。
私は、自分が成人してから、
あぁ、あの時祖母は、父と母の2人の時間を
少しでも長くしてやるべく駅で寝たんだと分かった。
祖母は、そんな事は一口も云わなかったけど。

それから、昼すぎまでどうして過ごしたか
書く事は出来ないが。
もうじき何時間。もうじき何時間と思いながら、
私は、父の体のあちこちにさわったり、
ふざけたりした。
時は、刻々と過ぎる。

昼すぎ、身支度を整え、6人は駅へ向かった。
父の乗る列車のホームと、私達の乗るホームは、
線路を挟んで並んでいた。

妹がいち早く父を見つけ、「お父ちゃーん。」 と
大きな声で叫んだ。
聞こえたかどうか分からないけど、
妹は、「お父ちゃんが泣いている。」と云って
オイオイ大声で泣き出した。
見ると父も確かに泣いていた。
私も胸から込み上げてくるものを
おさえる事が出来なかった。
母の眼にも祖母の眼にも涙、涙。
背中の弟だけは、眼をくるくるさせて
不思議そうな顔をしていた。

そして、この瞬間が、父との永遠の別れになった。

父はその後、南の島フィリピンのルソン島へ送られ、
昭和20年6月23日、戦病死となった知らせが
昭和21年に来た。
何が戦病死だ。きれいごと云うな。野たれ死にやないか。
あるいは、共食いだったかも分からない。
食べ物も何も持たせずに兵隊だけを送りこんで
どうするつもりだったのか?

私は、私の父を殺した人間を探し出して必ず仇を討つ。
79才の今でも未だにそう思っている。
誰なんだ、父を殺したのは。

私のような思いの人間は、日本に沢山いる。
そして、毎日、毎日、無念を晴らす事なく
年老いて死んで行ったんだろう。
歴史の上では、広島・長崎の原爆被害とされているが、
そんな単純なものではない。
よくもアメリカ相手に戦争をしたもんだ。
今頃、地獄の200℃の中で苦しんでいろ。
日本の都市のほとんどが空襲を受け、
東京も焼け野原になったあの3月の日。

戦争を止めさせて欲しかった。
出来なかったのだろうか。
いや、そんな事はない!
運命として片づけるには、あまりにも悲しすぎる。

私は、あの世にまでこの恨みを持って行く。
お父さん、5人の子供はみんな立派に成人して
夫々社会に貢献しています。






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2012年8月4日土曜日

はらはらどきどき  これが大切

 4年に一度のオリンピックが、真っ最中。
とにかく世界に大きな戦争がないという事で
喜ぶべき事だと思う。

私は、テレビを見る暇がほとんどないので、
あまり心がのらなかった。
しかし、毎日毎日、テレビは半分オリンピック放送。
何年か前、韓国と共催でワールドカップが行われ、
最終決戦が、横浜であった。

あの時は、本屋は泣いた。
売り上げが、グンと落ちてしまって。
その頃、書店の会合があった時、みんな口をそろえて
「もうやって欲しくないね。懲りたね。」
と云ったものだった。

今回は、日本ではないので、時間差はあるから
それ程でもないかとふんだけど、
やっぱり、売上は減った。
そりゃ4年に一度のオリンピックの方へ人の心は
向くでしょう。

私は、40年以上前の東京オリンピックの印象ばかり
強くて、その間にあったオリンピックは
あまり、心に残っていない。
変な人だと思うでしょうが、零細企業の経営者は
一番自分の売上が大事なんです。

毎日毎日、テレビはオリンピック。
そのうち見たくなくても見ざるを得ない。
だんだん、オリンピック病にかかったかな?
と思ったりした。

しかし、体操男子の内村航平選手の映像に当たった時、
私もテレビを切らずに魅せられてしまった。

あまりの素晴らしいというか、人間業でよくもこれだけと
思うような、映像は、迫力を感じてしまった。
解説を聞いていると、2~3才の頃から両親の手によって
体操の基礎のようなものをはじめていたとか。
小学校低学年の頃には、ノートに沢山の人間の
体の形を描いていたとか。
両親が、体操塾のようなものを開いているので
毎日毎日、小学校に上がる前から
体操というものに好き嫌いもなく、
その中に体がトップリつかっていたらしい。

そうです。これが内村航平という希代の名選手を
育てたんだと分かった。
おそらく、ほとんどの選手達もその他の選手も
これに近いトレーニングをやっていたんだと思う。
それだけやれば、才能さえあれば技術は向上するだろう。
そして、本人の心の中には、体操で名を成そうと
思うようになってゆくのが自然であろう。

話は、一寸外れますが、”読書”本を読むという事も
これと全く同じです。
2~3才の頃から、字は読めなくても
絵を見て物語を覚えてゆく。
そして、字もそのうちすこしずつ覚えてくる。
字が分かりだすと、絵本の中の面白さに惹きつけられる。
もっと、違う本が読みたいという欲求が生まれ、
次の本に、次の本にと、心が躍る。
年令を重ねてゆくと、絵本ではなく、物語の本を
せがむようになり、もうそうなると、読書の喜びが
体内の血となって流れるようになってくる。

これが、読書のはじまりです。
ゆとり教育の間の30年間に育った人はかわいそう。
こういう素晴らしい事を知らずに成長してしまい、
もう今となっては、コミックは面白いか・・・?
という事になってしまった。

私は、紙芝居が一番最初に子供の心を打つと
いう事を発見。
以来、紙芝居の在庫も充分に持ち、
ネットの中にも [ 紙芝居の販売店 ] 
検索していただければ、
イセザキ書房の内容は 、一番に出てくる。

小さなお子さんのおられるお母さん、
内村航平のような競争舞台はないけれど、
オリンピックより、もっと大事な人生劇場の中で
必ず秀でた子供に育ち、本好きになり、
あなたのお子さんは、一生大きな得を得ると思います。

読書は、難しいものではありません。
普通の人間らしい人間の欲望の中の一種です。

さぁさぁ、内村航平のように有名にならなくても
人間として、必ず幸せな人生を送る事が
出来ると思います。
すべては、2~3才の頃から人間の成長は始まります。

読みましょう、本を。
学びましょう、本の中から。
時にはゲームも、気休めにね。





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