2012年9月15日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その1

 そうだ、もうあれから半世紀半。
私は、瀬戸内海のおだやかな海辺で
大網元の若い夫婦の長女として生まれた。
母は、20才そこそこで23才の父と結婚。
私は、父の両親・母の両親と
四人の祖父母にかわいがられ
幸せな赤ちゃんだった。

しかし、三人も続けて女の子ばかり生まれて
三番目の妹の時は、見にも来てくれなかった。
その妹が一番やさしくて、一番きれいで、
70才過ぎた今も旅館の女将をやっている。

フィリピンでの敗戦の年、昭和20年6月、
ルソン島で戦病死(野たれ死に)した父は、
33才で召集令状を受け、
昭和17年11月、我が家と大きな仕事を
残したまま終に、一度も帰らず、
どんな死に方をしたのかも分からず、
唯、戦病死という知らせがあったのは
私が、女学校の一年生の時だった。

私は、妹二人・弟二人の五人兄弟。
親類の人から 
「吉光さん、絶対生きて
かえらないかんよ。」
とみんなに云われる度に、
「こんな五人の子供や、老父母を残して
死ねるものですか。生きて帰りますよ。」
と云っていた。
しかし、実際は、訳の分からぬ死に方で、
ただ、フィリピンのルソン島にいた
兵隊の中の一人であった事しか分からない。
物々しい白木の箱が帰って来たが、
空けてみると、[名和吉光の霊]と書かれた
紙切れが一枚、入っていたのみ。

ひどい、本当にひどい。
私は、今でも父を殺したのは誰かと
探し続けて60年。運命であったと
自分自身に言い聞かせる事は、今もって
不可能である。

上の弟は、父と別れたのが3才の時。
未だ、高松港から宇野まで連絡船の時代であった。
父が連絡船に乗り込み、船が動き出した時、
「お父ちゃーん。行っちゃいや。お父ちゃん帰ってきて。」
と泣きながら桟橋の端まで追いかけて行った姿を
私は、一生忘れる事ができない。

蟹甲湾の中の漁業権をいくら持っていても
70才に近い祖父にはやりきれず、
知り合いに権利を貸してしまった。

父の両親は、いずれもしっかり者同士で、
そこへ嫁に入って来た母は、若くして大変苦労した。
祖母が、あまりにも頭が切れる人なので、
何から何まですべて祖母が仕切り、
母は、その手伝いをさせられていたのかな。

私が母を思い出すと、いつも洗濯している姿、
縫物をしている姿が浮かんでくる。
今、この年令になっても。

長女だからという事で、
私の初めての時着(秋祭りに着用する)は、
祖母が、品物を決め、母の縫い方では気に入らず、
母は、針仕事の稽古に神戸にいる姉のところへ
一ヶ月間位、教えてもらいに行かされたらしい。
神戸の伯母さんは、花道・茶道・習字・琴など
何でも師範格の腕前の人だった。
小さい時、士族の家へ養女にやられ
相当仕込まれたらしい。
私もこの伯母が、私の家の近くへ疎開して来た
10年間位の間に、花道・茶道・書道を教えてもらった。

非常に、難しいシュート・シュートメに仕えながら
5人の子供を生んだその直後、
下の弟が、生後10ヶ月の時、夫である私の父は
召集兵として家を出たまま帰らぬ人となった。
思えば、母の夫婦生活は、
決して不幸ではなかったけれど、
気遣いは大変だったと思う。




 
フィリピン ルソン島 戦没者慰霊碑



* 今後も不定期に掲載してゆきますので、お見逃しなく。 *






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