2012年9月29日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その2

私が生まれた年に名和家は、本宅を新築した。
今ある家は、私と同い年令。
随分お金をかけて作った家だと思う。
80年近くしっかりしたもの。
大黒柱は、大人二人の両手の長さの円。
玄関は桜、廊下は檜。

父の母(祖母)も大した女で、新築の途中も
「ナカさんにはかなわないよ。」と云われる程の
口八丁手八丁の女だった。
結婚が決まった時、夫になる人には
男女併せて十人くらい兄弟がいるので
「これは小姑にやられるよ。」と云って反対された。
「私は、誰にも何も云われないだけの仕事を
するから何も怖くない。」とタンカを切って
結婚に踏み切ったようだ。

確かに、祖父は正装(和服姿)をして
帽子をかぶって出掛ける時、
出会った人が振り返る程、紳士
素敵な人だった。祖母も魅かれていたのかもと
私は思う。

美男美女の頭の切れる夫婦だったけれど
なぜか子供に恵まれなかった。
長女の竹子は3才の時、病名も分からず
下痢をして一晩で医者も驚く程、
あっけなく亡くなった。
「竹子はきれいだったぞ。」と
一度、祖父から聞いた事があった。

二女は、結婚して二人目の子供を産んだ時、
産後のヒダチが悪くて死んだ。
生まれた子供は、大変な大店の呉服屋へ
こわれて養女にやった。
これも4才の時、一晩の高熱でそのまま
死んでしまった。

更に、その上に、生まれていた男の子は
私と同じ位の年令で、ハンサムボーイで
あったのに、自動車事故で20才前に亡くなった。

そして、たった一人の長男(私の父)は、
33才で出征し、36才で戦病死。
両親より長く生きたのは、
末っ子のユキ子だけだった。

高松の空襲で焼け出され、津日へ来て
名和の田んぼで百姓をしていたが、
軍人であったユキ子の夫が、復員して来てから
高松へ戻った。子供は三人いた。

さて、私は、昭和8年に生まれてから、
妹・妹・弟・弟と兄弟が増えていった。
そう、あの頃だった。一番幸せだったのは。

末弟が、昭和18年に生まれ、
祖父母・父母・兄弟5人、9人家族になった時。
又、食事は、祖父は別膳で、
残り8人は大きな食卓を囲んで、
末っ子は父のひざの上だったか?
楽しい楽しい夕食だった。
70年経った今でも、あの頃の事は
嬉しい、嬉しい、嬉しくて涙の出そうな思いである。

戦争が長引くにつれ、物不足時代に入っても
私の家は田んぼの年貢が入り、
漁業の売り上げが入り、特に困る事は
感じなかった。

私は、学校の成績だけを一番気にして
級長になり、一番になり、勉強をすることが
楽しくて楽しくてたまらなかった。
文房具も不足がちだったが、知り合いに
文房具やがあり、何も不便しなかった。
私の兄弟で、父方に似た者は美人。
母方に似た者はブス子ちゃん。
私は、残念ながら後者であった。
教科書は、暗記する程読むけれど、
それ以外の本が読みたくて、あちらこちらと
借りていた。新刊などほとんどなかった。

祖母もあちこちから借りてきてくれた。
そして、夜寝る時に毎日お話をしてくれた。
私は、それを聞きながら眠りについていた。
おとぎばなしは、ほとんど祖母から聞いた。

母が特別に読んでいた『主婦の友』なども
私は読んでいた。

入学したのは小学校。
戦争が始まり国民学校と呼ぶようになった。
そして、卒業する時は敗戦国だったので
又、小学校。総代で卒業した。

その頃、5年・6年生を受け持ってくれた
原井先生という女教師が、国語に詳しく
作文をよく書かされ、発表したりさせられた。
又、『宮本武蔵』とか、古本屋で借りてきて
読んでくれたり、私が作文が好きになったのは
原井先生のおかげ。でも、体育はダメ。
薙刀を振らされたけど教える先生の方が
下手だから全く面白くなかった。

そして、戦争は終わったけれど平和ではない
少女時代だった。
素人百姓の田んぼを手伝いさせられ、
田植えも稲刈りも 麦蒔きも草取りもした。
田んぼに入れる肥やしも、私は母を手伝って
運んだ。私よりもつらかったのは母だったと思う。

母は、船の管理も祖父に代わってやるし、
田んぼも荒らしたままおくわけにもゆかず、
朝から夜まで働き通しだった。

そして祖母も、もう目がそろそろ見えにくくなり、
その治療をする医者がなく、赤十字病院へ
入院したりしたけれど、良くはならなかった。
そんな体調でも、私達の食事の準備は全部する。
当時は、私の家は、未だ木で炊くおかまの
時代だったので、その木を割る仕事も、祖母は
やっていた。目が見えなくても感の鋭い人だった。
祖母は、歩いて4~5分の所へ嫁いでいるので、
新婚旅行などとんでもない。
でも神様は、この働くばかりの老夫婦に
旧婚旅行を授けてくれた。

大阪の叔父が、祖父母を京都・奈良の
神社仏閣に全部連れて行ってくれた。
祖父母にとっては、最初にして最後の大旅行
だったと思う。1週間以上も家をあけるという
事も又。
祖母は、仏教に非常に熱心な人だったので
毎日拝んでいたのを私が覚えてしまうほど
だったから、この上もなく嬉しかったと思う。

父母は、どうだったのだろう。
きっと、何もなかったように思う。
小さな旅行でもあって欲しかった。

さて、次回からは、私の女学校時代へ入ります。







-----------------------------------
 イセザキ書房
〒231-0055 神奈川県横浜市中区末吉町1-23
TEL: 045-261-3308
FAX: 045-261-3309
www.isezaki-book.com
 お問い合わせ・ご注文フォーム
 にほんブログ村 本ブログ 出版社・書店へ
イセザキ書房オンラインショップ

0 件のコメント: