2012年10月20日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その3

父が出征する3日前、夕暮れの波打ち際で
二人きりで話した時、私は、ふと思った。
父は、この海で又泳ぐ事が出来るのだろうか。
この海でなく世界中のどの海でも
泳げなくなるのではないだろうか。
私は、子供心になぜかふとそう思った事を
何十年経っても忘れない。

その時父が、
「智子は大学へ行ってしっかり勉強してくれよ。
お前なら一角の人間になれるよ。」と云った。
この言葉も私は、ずーと忘れずに生きて来た。
香川県でなら高松高女が一番だから、
高松のおばさんの家へ寄宿して、高女へ行こうと
思っていた。
ところが、その時教師をしていた尾島のおじに
「今、高女は空襲で焼けてしまい、元に戻すのは
時間がかかる。津田女へ行った方がいいよ。」
とアドバイスを受けたので、ならばとそう決めた。
受験準備らしきものも学校ではほとんど
してくれなかった。当時の受け持ちの教師は
この方面の力はなかったと、今にして思う。

そして受験当日。
筆記試験と口頭試問。かなり緊張した。
それでも、試験は終わり、発表までに1ヶ月位、
いや、それ以上の時間があったように思う。
私はその間、受かれば  受からなければ
どうしようかと悩みつつ、疎開して来ていた
千賀のおばに、お花とお茶と習字を
教えてもらう事にした。
お花は、それ以来ずーっと、おばが神戸へ
帰るまで10年間位習い、
“ 末生流奥伝 ”  までとれた。おかげで
(仏壇へお花を供える時でも、
自然に手が動くさまになる入れ方が出来る

そして、受験発表の日。
母が見に行ってくれた。受験番号は、18番。
母は、たまたまそこに知り合いの高島先生が
いたので、
「高島先生、うちの娘、受かっとるかしら?」
と聞いた。見れば分かるけど、
母はどきどきしながら聞いたらしい。
高島先生曰く「名前は?」と聞く。
「名和智子。18番です。」と云うと、
「あ、名和智子。一番で入ってますので
入学式の時、誓書を読みますよ。」
と云われた言葉を聞いて、
母は、ほっとするというか、うれしいというか
一番で入学できたので、「よかった、夫が
帰ったら喜ぶだろうな」と思いつつ家に帰り、
祖父と祖母に伝えた。

祖父は「そうか一番か、よかったのお。」と云い
祖母は「智子が受かるのは、分かっていた。
だけど、一番とはやっぱり智子らしいわ。」
云った。 妹・弟達にも話したけど、みんな
まだ、小さくてどんな反応をしたか
よく覚えていない。

入学式には、160名の新入生総代として、
誓いの言葉を読んだ。
物のない最低の時代だったので、
制服も黒の毛糸で編んだセーターを
着ていた子もいた。私は、古い着物を使って、
ちゃんとしたセーラー服を作ってもらった。
普段の日は、黒いネクタイ。
祝日登校の時は、白いネクタイと決まっていた。
今のように、祝日は休むだけでなく
式典があるので登校した時代。

私は、一年一組。
大森先生が、クラスの担当の先生だった。
先ず、教科書は古いのを調達して、いけない所は、
墨で黒く塗りつぶしたものだった。
国語の本沢先生は、教科書のないのを
逆手にとって、毎時間、古事ことわざを
黒板に10件位ずつ書き、その言葉の
成り立ちの説明をしてくれた。

 雨降って地固まる

 画にかいた餅

 得手に帆をあげる

 鳶が鷹を生む

 角をたてて牛を殺す    etc.

私は、この国語の時間がなかったら、
知らない事ばっかりだったと思う。
本沢先生に感謝する。

習字の時間だったと思う。
時間の始めに、一人一人名前を呼ぶ。
そして、樋端英子さんと呼ばれ、「ハイ。」と
返事をした時、先生が、
「樋端大佐とは、何か御親戚ですか?」と聞く。
樋端さんは、すっと立ち上がって、
「私の父です。」と答えた。
びっくりしたのは習字の先生。
「え?貴方のお父さん?」と。
私もびっくりした。それまで知らなかったから。

樋端さんも成績の良い友達で仲が良かった。
驚いたのは、教室の隅に置いてある
オルガンで何でも弾くので
「あ、家にピアノがあるんだな。」と位にしか
思っていなかった。
山本五十六の武官で、山本五十六と共に
南の空に散った有名な樋端大佐。
あれから、日本の敗色はいろ濃くなったのだ。
さすがだなぁと思い、仲良くしていたが、
一年生の終わりに、
「名和さん。私ね、母の実家のある東京へ
行く事になったの。お別れね。」
と云って、たった一年だけで津田高女から
去って行った。
 「又、いつかどこかで会おうね。」と
指きりして別れた。
しかし、「又、いつか」は、半世紀過ぎても
終に再会は、叶わなかった。

地方の高校だけど、疎開したり、
焼け出されたり、引き揚げて来たりした
優秀な先生にもおかげで会う事が出来た。
不幸中の幸いだった。

私達が二年生になった時から、
教育制度が、6・3・3制に変わった。
そのため。私達は、
大川女子高等学校併設中学校二年生になり、
次の年もその次の年も
後輩は入学してこない。
みんな、夫々の地方に新制中学校が
出来て、そちらへ入って行ったので。
三年目に晴れて高等学校二年生になった時、
地方の中学から、高校一年生が入って来た。
その時は、男女共学だから男子生徒も
入って来た。
学校の風景が変わった。
雰囲気も変わった。

一年下と云っても、男と女。
あの子素敵とかいう声もちらほら。
普通科と家庭科とあったので、
家庭科は女子ばかり。
人数の関係から、科目によっては
一年生と二年生が一緒に学ぶ
時間もあった。
小学校の時も男子組、女子組と
男女組というのがあったけど
その時の男女組とは全く異なる雰囲気で
なかなか出来る男の子や、いでたちの好い
男の子は、もてていた。又、その反対もあり。

私が、二年生の時、生徒会が出来た。
会長は、全生徒の投票で決める。
体育の先生が、「名和さん、立候補せよ。」と
云われるので、私は立候補した。
1名のところ、3名立候補し、選挙運動もあり、
立ち合い演説会もあった。
三年生からも一人出ていたので激戦だった。
私が、2位と4票の差で当選。
2位は、三年生の生徒だった。
それから一年間、生徒会長としても活躍した。
学芸会・文化祭などにも大活躍した。
今から考えると、若い先生との年齢差は
5年位。先生の方も、生徒を愛の対象として
見ていた様子。それに応えた生徒もいた。

私は、結局6年間在学した訳だ。
私は、弁論大会にも年に何度も出た。
県大会でもほとんど1位になった。
話す事にそろそろ自信みたいなものも
出て来た。 しかし、体育が苦手であった。
ある時、私が創作ダンスで[祈り]と題して
自作自演したのが、体育の教師の目に止まり、
体育も決して嫌いではなくなった。

6年間公私にわたって、私は大活躍した。
私と1年間でも一緒に学んだ人は、
みんな≪名和智子≫というのは知りすぎている。
楽しい、楽しい6年間だった。進学クラスに入り、
私は大学進学するつもりでいた。
だが、思はぬ事が起きて意のままにならず。
父の戦病死の報は、女学校一年生の時。
学校では、この上もなく活躍し楽しかったが、
家庭では、父を亡くした事で大変だった。

戦争のおかげで、私の人生航路に
くるいが出始めた。卒業も一番で卒業し、
今も、私の卒業式の答辞は、
学校に保存されているらしい。
60年以上も経っているのに。

さて、私は、どうすればよいか、思案に暮れた。








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