この写真帖を眺めていると遠い昔の事ではなく、2、3年前 否
昨日のように思えてくる。
私が伊勢佐木町5丁目にイセザキ書房を開店したのは
昭和29年12月。
まったくこの本の写真の時代であった。
関内・ミナトの写真は全部私の脳裏にしっかり刻み込まれているものばかり。
港の船の大きい事、船の美しいこと 全部覚えている。
コンテナ船ではなく、みんな人の力で荷役作業をやっていた。
雨のそぼ降る中、外国船の船員さんがデッキにもたれて
外を眺めている姿に出会うと、一枚の絵のように胸に迫ってくる事が多かった。
昨日のように思えてくる。
私が伊勢佐木町5丁目にイセザキ書房を開店したのは
昭和29年12月。
まったくこの本の写真の時代であった。
関内・ミナトの写真は全部私の脳裏にしっかり刻み込まれているものばかり。
港の船の大きい事、船の美しいこと 全部覚えている。
コンテナ船ではなく、みんな人の力で荷役作業をやっていた。
雨のそぼ降る中、外国船の船員さんがデッキにもたれて
外を眺めている姿に出会うと、一枚の絵のように胸に迫ってくる事が多かった。
そう 市電がチンチンと走っていた。
私はスクーターの乗り始めの頃
この市電の線路にスクーターの車輪が入って
スッテンコロリン。
周囲の人に皆に驚かれたり、笑われたり。
私は恥ずかしくて早くその場を立ち去ろうとしたあの時の事を忘れられない。
そして伊勢佐木町。
私はまだ20才ほんのちょっと。
商店街の店主たちは皆私よりずーっと先輩。
いつもヒヨコ扱いされながら一つ一つ商売を覚えていった。
あの優雅で懐の深い人情あふるる街を知っているのは私が最後の年代の様に思う。
VOYGE(生地屋さん)私の店のすぐ近くだったのでよく買わせてもらった。
その頃は自分でミシンを踏んで簡単なワンピースやスカートを
作る人がほとんどだった。
そして本番!根岸屋
上巻には写真には出ていないけど伊勢佐木町を語る上で絶対逃せられない酒場
スッテンコロリン。
周囲の人に皆に驚かれたり、笑われたり。
私は恥ずかしくて早くその場を立ち去ろうとしたあの時の事を忘れられない。
そして伊勢佐木町。
私はまだ20才ほんのちょっと。
商店街の店主たちは皆私よりずーっと先輩。
いつもヒヨコ扱いされながら一つ一つ商売を覚えていった。
あの優雅で懐の深い人情あふるる街を知っているのは私が最後の年代の様に思う。
VOYGE(生地屋さん)私の店のすぐ近くだったのでよく買わせてもらった。
その頃は自分でミシンを踏んで簡単なワンピースやスカートを
作る人がほとんどだった。
そして本番!根岸屋
上巻には写真には出ていないけど伊勢佐木町を語る上で絶対逃せられない酒場
根岸屋
生バンドが入っていて夜明け近くまで音楽が鳴り響き客は酒を傾けていた。
このバンドの中のピアニストが大の本好き。
毎日、毎日来てくれた。
そして本の知識をいっぱい持っていて私は新米本屋なので
時々恥ずかしい思いをした事も いまは懐かしい。
「イセザキ書房さん、小説新潮とオール読物持ってきて!
今日は木下恵介が来るわよ! 4時頃かな?その時いらっしゃい」
レジのおばさんの電話で私は4時頃2冊の雑誌を抱えていそいそと根岸屋へ向かう。
いた いた!木下恵介監督!
あぁ・・・あんなおじさんなんだ
と思ったのが第一印象。
「先生、本屋さんよ、この人」
と紹介してくれると
「ああ・・そう本屋の店員さんか」
と言ってくれた。
誰が見ても経営者の片割れとは思えない年齢。
ああ・・私もあの頃は若かった
希望と夢がいっぱいだった
未来を信じきっていた
必ず明るい将来があると思い込んでいた
私ばかりではない。
みんな みんなそうだった。
それが30年代だったんだ。
「今日はひばりちゃんが来るわよ」と言われて
やっぱり本を抱えて根岸屋へ。
ああ、いたいた!お母さんと何人かの付き人と。
お酒を飲みながら笑い転げていた
やっぱりスターは違うなと思った。
残念ながら根岸屋は30年前に火事で無くなってしまった。
とても残念。
そのひばりが35年頃私の伊勢佐木町の店のすぐ裏の若葉町通りにお店を開いた。
一階が美之寿司
二階はかつひばり
開店から一ヶ月間毎日毎日大勢のファンで若葉町はいっぱいだった。
表からは人が多くて入れないので、私のお店の後を通って入っていってくれるので
私は目の前でひばり母子を何度も見ることができた
お寿司がとても美味しかった
食通の人でも皆ネタが良い!と言って褒めていた。
妹や弟たちが私の店へよく本を買いに来てくれた。
いつも1万円札を出していたのが忘れられない。
その若葉町には日劇・名画座という由緒ある映画館が向かい合っていて
2番館だけどいつも3本立てなのでいっぱいだった。
真夏にクーラーもない映画館だったのに・・・・
その名画座はジャック&ベティという映画館に変わった
日劇は今、解体中
その跡にマンションが建つらしい。
遠くから日劇目当てに来てくれた人たちはどこに行ってしまったのか・・・
でも濱マイクの事務所がこの2階にあって永瀬正敏がやって来たのは
ついこの間の様に思うけど ・・・・・・・
そのもう1つ裏の通りにストリップ劇場が夜遅くまで灯をともしていた。
まだ20才代の女の私には足を踏み入れた事は無かったけど残念ながら。
そのもう1つ裏の通りにストリップ劇場が夜遅くまで灯をともしていた。
まだ20才代の女の私には足を踏み入れた事は無かったけど残念ながら。
今、ミナトミライの中に立って 、この場所が三菱重工の横浜造船所であった事を
知っている人は少いと思います。
この横浜造船所から新造船が次々生まれ日本の高度経済成長に
大きな力を発揮した事はもう今は昔物語、歴史の中のいっせきになりました。
なぜか私は海に縁があり、瀬戸内海の、のどかな海辺の町で網元の娘として生まれ
結婚した夫は横須賀ベース前のスーベニアで
アメリカンネイビー相手の洋書店でした。
初めて横須賀の土地を踏んだ時7月だったので大勢の白い
セーラー服の米兵に驚かされました。
横須賀基地でひとときの休日を楽しむ米兵の姿はきれいだなーと思いました。
そして私が驚いたのは夕方5時頃になると基地の中の国旗が降され
国旗が奏でられるのですが、その音楽が聞こえるやいなや
歩いてる水兵も見物している水兵も全員が立ち止まり国旗に向かってずーっと
敬礼を捧げていた事です。
私はビックリしました。
アメリカ人の国旗に対する国家に対する教養の念を目の当たりにして
日本人の私には思い及ばぬ姿でありました。
98Pからのドブ板通りの水兵を見ているとなつかしくて
私の店(SATOU BOOK STOR)が見えるような気がいたしました。
店の前には人力車が10台ずつずらりと並んでいて米兵相手に
「ヘイ!リキシャ!」
と呼び込みをしていたおじさん達の声が聞こえて来そうです。
得意満面な顔つきで目的地に売ってゆくのはタクシーに乗るのとは
一味違った気分だった事でしょう。
シューシャンボーイならぬシューシャンおばさんがあちこちにいたり
花売り娘が「どうぞ、買ってください」と言いながら兵隊の
群の中を縫うように歩いていたり
ドブ板通りはその名の通り様々な光景が見られました。
逗子に住んだ身には梅山という海にも山にも近いとても良い環境で
亡夫と共に朝早くよくボートを乗りに行きました。
楽しかったです。
なつかしいです。
亡夫と会いたいです。
今もずーっと続けているのは鎌倉八幡宮の初まいり1年間よろしくと懸命に手を合わせております。
50年間の問いはお参りする人の服装で、その時代がよめるようになりました
私にとって神奈川は生まれた場所ではないものの育ててくれ
人間として教育してくれたのは全部神奈川
私は神奈川の土になります
神奈川を愛し神奈川の水を飲み
悲しみも苦しみも、そして喜びも神奈川で味わい生きてきました
私は亡夫と共に神奈川の土になりたいと申し上げ
この項を終わりにしたいと思います
アーカイブス出版
定価4700円
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