夢を見ていたのだろうか。
キセ子はうつらうつらしながら、ベットの上の60年前に、たった3年余の結婚生活で死別してしまった夫の写真を見上げてみた。
キセ子はその町一番の造り酒屋へ見合結婚をして嫁いで来た。
見合の時も、ただ俯いてばかりいたので労働で節くれだった両手を見るばかりで、顔はチラリと見ただけだった。
「男らしい人だな・・・・でも優しそうだな」と感じただけで。
あとは、造り酒屋の跡取り息子で、資産家の長男というだけしか分からなかった。
夫 浩太郎は大家の息子でどっしりとした感じは
したが、やさしそうなまなざしだった。
この結婚は一回の見合で成立した。
当時(70年前)は女は20才を過ぎると行き遅れと云われ両親は心忙しくなる時代だった。
浩太郎には二人の妹がいた。
いずれも未だ決まらず大きな家とはいえ同じ屋根の下で暮さねばならない。
次女はともかく長女はキツイ性格で結婚後も箸の上げ下ろしまで文句をつけられた。
サラリーマンの家庭でおっとり育ったキセ子はには驚く事ばかりだった。
更に義母は超ケンヤク家で不要な物は何一つ買わず嫁が何か買ってきても「いらないから返してこい」とよく云われた。
義父は一代を成した男だけに何かにつけて商売一筋キセ子の結婚にも必ず男の子を生んでくれ、男の子が生まれなかったら離婚すると云われた。
やがてキセ子は妊娠したが、男か女か分からない「女の子だったら、その赤ん坊を連れて帰って来い」と実家の両親は云うもののキセ子は何としても男の子を産みたかった。思いの他優しい浩太郎と夫婦として生きたいという愛情がだんだんにふくらんで来ていたのだ。
キセ子の願いかなって立派な男の子が生まれ義父は大喜び。
義母もヨカッタヨカッタと云っていた。
義妹二人はあちこちから縁談の話が出てきてやがて、親子三人で暮らせるようになる日をキセ子は夢に見ながら太一と名づけられた息子を一生懸命育てた。
時は流れて太一がやっと立ち上がれるようになった頃、思いがけぬ事が起きた。
浩太郎に招集令状が届いた。
「キセ子よ、太一を頼むぞ、必ず生きて帰ってくるから心配するな」とキセ子を大きな体で抱き寄せながら何度も何度も云ってくれた。
キセ子もその言葉を聞いているうちに暫くの間だから我慢しようと心に決めた。
当時は毎日のように召集兵を送る日の丸の小旗のかげで別離の悲しみの涙がとめどなく流された。
浩太郎は木更津へ入隊した。
木更津と云えば四国からは随分遠い所、途中高松まで送って行ったが別れの涙で前が見えなかった。
何も分からぬ太一をしっかり抱きしめて。
大きくなれよ、元気で待ってろよと何度も何度もくり返し、キセ子にも「心配するな、元気で帰ってくるよ」と自分も涙ぐみながら何度も云った
キセ子は毎日毎日色々な事を書いて手紙を出した。
浩太郎がいなくなると二人の妹も当たり方もキツく、太一、一人が生きがいだった。
「今日は太一はお乳を沢山飲んでくれました。配給の小麦粉でお菓子を作って食べさせたかったけど、義姉さん達が無駄な事するなと云われたので止めました。」
「太一はつかまり立ちが出来るようになりました。貴方に見せたいけど家には写真機もないし、お見せする事が出来なくて残念です。今度あなたと会う時には歩いているかも分かりません」
こういうハガキもすべて浩太郎が頼んでおいた木更津の旅館宛に発送した。
軍隊へは監察が厳しいのでこんな事、書けなかった。
ある日
電報が届いた。
二日間休みが出来たので面会に来てくれ
キセ子は飛び上がる程嬉しかった。
でもその旅費とか準備はどうすれば良いのだろうか。
実家の母に相談すると大阪にいるキセ子の兄が「俺がキセ子を木更津まで連れて行って商用を済ませてそれから連れて帰ってやる。」
という知らせが届きキセ子はほっとした。
義母は浩太郎の好物のアナゴのつけ焼きの入った巻きずし、魚の干物を甘辛く煮たもの等、沢山の食べ物を作ってくれた。
大阪の商人の兄のおかげでキセ子は安心して木更津まで無事行く事が出来た。
途中、東京で乗り換える時、ああこれが東京かとはじめてみる東京の空も珍しかった。
太一はキセ子の背中でどことなく喜々としていた。
分かるのだろうか、父親に会える事が。
でも太一には何も分からなかった。
母の背中でキョロキョロしたり眠ったり。
旅館へ着くなり大阪の兄は荷物をおくやいなや旅館へ心つげを渡し「宜しく頼む、明後日に迎えにくるから」と云って旅館を出た。
やっとやっと親子三人になった。
「太一よ、お父さんだよ」と云って、扇子をもった手を太一の方へ向けようすると、その扇子の先だけ一寸触り父の顔をただ不思議げに観ているだけだった。
太一が父とゆっくり会ったのはこの時が
最後であったのに。そんな事は父も母も本人も全く想像もしなかった。
浩太郎が「少し町を歩いてみるか、何も売ってる店もないけどあの田んぼの方へでも行ってみるか」と云って義母の手作りの巻きずしを少し持って太一を背中に背負いキセ子は旅館に「散歩にいってまいります。」と挨拶して出掛けた。
木更津は大きな町ではないので、あちこちに田畑が残り、空の色も澄んでいてとても奇麗だった。
キセ子は思った。
「私は誰にも干渉されず みられず夫とこうして肩を並べて歩いている、こんな事は結婚以来一度もなかった。いつも後ろから横から他人の目が光っていたのに。今のこれを幸というんだろうか」
その思い出はキセ子の90年間の歴史の中で唯一つの夫婦としての本当に心の通った美しい、そして悲しい思い出であった。
浩太郎はあんなに約束したけれど、ニューギニアの沖で海中のもくずとなって戦死した。
昭和20年6月のこと。、以後キセ子は再婚もせず、太一を心の頼りとして生きてきた。
90年という長い人生の中でたった一度だけの夫婦らしい光景はキセ子の心の中にしっかりと根付いていた。
ふと目が覚めると、この日の夢を何度見た事か。
女性として、幸ではなかったかも分からないがキセ子は太一という頭のよい息子が東大を卒業して大蔵省に入った時、仏の前でさめざめと泣いた。
「やっとやっと私の役目が終わりました浩太郎さん、これからは太一を助けてやって下さい」と。
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