長女として生まれた。
父23才、母22才。若い夫婦の子供だけど
祖父母にとって初孫だったので
とても大事に育てていただけた。
その後、1年半おきに妹・妹・弟・弟と
5人の子供が生まれた。
大きな飯台に周りに、祖母と母、
その降り角を越えて本延、敏延、
その降りを越えて父が真ん中にドンと座り
時々、赤ちゃんに近い敏延を抱き
口に食べ物を持っていきながら、
「うまいの~」と云いながら夕食をとっていた。
祖父は、別膳でおかずも一番良い所をつける。
そして、一合瓶で温めた日本酒を飲みながら、
「智子、飲んでみろ。」と云って、
時々杯を後ろからまわしてくる。
最初はちっとも美味しくないと思っていたが、
何年かするうちに日本酒の味が
分かるようになった。
今でも、私はどんなに暑い日でも
日本酒は熱燗にする。
近頃、もう80年近く前の事を思い、
独りで味わう。
あの暑かった日々の夕食、
9人寄り添って食べた日を思い出す。
私は年を重ねるに従い、思い出の景色が
鮮やかになり、私の一生のうちで
多分一番幸せ時期だったと思う。
一家の権限は、祖父にあったが、
実際は祖母の考え方で家庭はまわっていた。
その頃の父は、5人の子供に取り巻かれて
「子供は何人あってもよい。多いほどよい。」
なんて云いながら、足の裏にのせたり
肩車に
したり、子供を叱ったという事は覚えがない。
母は毎日毎日、風呂場の横で何時間もかかって
洗濯をしていた姿ばかり鮮やか。
母の実家は、商人だったので
充分な女の仕事や稽古もせず結婚したため、
何かにつけて出来が悪いと祖母に叱られていた。
私は、母が叱られるのが一番悲しかった。
私を叱って欲しいと何度思った事か。
そのうち、神戸の母の姉の家へ
縫い物や家事の練習のため、1ヶ月位行って
来たように思う。
私もこの神戸の叔母から、花、茶、習字、
時には琴も教えてもらった。
士族の家に養女にやられた叔母も、
若い時には相当仕込まれたらしい。
以来、私や妹、弟の着る物は母の手によって
作られた。母は、洋裁学校へも通っていた。
祖母はケチンボだけど、習い事にやるのは
とても積極的だった。
私にも琴を習えといって積極的に協力してくれた。
風通しの良い玄関で、隣のお兄さんと父が
話していた。
「お前、馬鹿な事を云うんじゃない。
靖国で会おうなんて、そんな事云って特攻に
行ってはいけない。
お前のうちはもう兄貴2人戦死しているんだぞ。
両親の事はどうするんだ。
飛行機はいいけど、突撃隊で死んだりするなよ。
生きて帰って来いよ。」
父の言葉が何年もしないうちに
我が身に降りかかろうとは誰も思わなかった。
「靖国で会おう、そんな事云ってどうするんだ。」
それは、父上様、貴方へのメッセージとなって
しまいました。
つづく・・・。
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