父上は、30才も過ぎた自分のところまで
召集が来るとは考えていなかったのね。
九州の母の姉の息子は、特攻隊で
死んでゆきました。
世相は、「日本は戦争に絶対に勝てる」と
未だ思っていたんですね。
大本営発表は、本当の事を発表しなかったから。
でも現実は、違っていました。
学生から中年の男性まで、もう片っ端から
戦争の場へ送りだしたのですね。
武器も持たさず、飲み物・食べ物も与えず。
父上が津田の駅頭で挨拶した時、
他の4人もみんな妻子のある人でした。
あぁ、あの挨拶。
父上最高ですよ。
素晴らしい挨拶でした。
私は、それでも小学校3年生だったから、
はっきりと覚えています。
しかし、妹2人、勿論、弟2人は、未だ赤ちゃんと
3才だったんですもの。
覚えているはずもありません。
父上がいなくなってから、弟2人は祖父を
父親代わりに思っていたようです。
祖父が亡くなった時、大学生であった下の弟が
ものすごく激しく泣いたと聞いています。
私は、祖父の時も、祖母の時も
大恩のある人だから、せめて別れには
行きたかったが、亡き夫には
「行く必要はない。」
「行くなら離婚して行け。」と云われました。
亡き夫は、厳しいとかきついというのではなく
情の薄い男でした。
これも私の運命。
私が小学校2年生の時、学芸会に出演した折、
父上はちらっと見に来ましたね。
「吉光さん。あんたのとこの娘、よう出来るというし、
先が楽しみだね。」と
云われて恥ずかしそうにして帰って行ったのを
私は知っていました。
父上様。
私は小学校の時も一番で卒業。
それから、高松高女へ行こうとしたが、
屋島の登おじさんから
「高女は焼けてしまって授業が出来んぞ。
津田女へ行った方がよい。」 という
アドバイスを得て
当時は未だ、大川女学校と呼ばれていた
学校へ入学しました。
合格発表の日。
母が18番という私の受験番号を探していたら
知り合いの教師に会い、
「18番ありますか。」と聞いたら、
「名前は。」「名和智子です。」
「あぁ、名和は一番で合格したから
入学式の日に誓いの書を読むはずです。」
との事。
嬉しいのか何か分からず家に帰り、
「おばあさん。智子は一番で入学していたよ。」
と声を弾ませて告げた。
「当たり前だよ、智子なら。」
と祖母は当然の事のように淡々と答えたらしい。
入学式当日。
誓いの言葉を読んだのが、
私が生まれて初めて、大勢の前で、
自分の声を披露した時であった。
父上が野垂れ死にしているとは未だ知らず
父上が帰って来たら、すぐに話して
「京大へ行きたい。」と頼もうと考えていた。
しかし、その年の夏のある夜。
夜9時過ぎた頃に役場の人が3人来て、
父の戦病死を知らせて来た。
思いがけぬ大仰天。
私は涙も出なかった。
唯、母がよろけるように何時間も泣いて泣いて。
私は母に云った。
「泣いても駄目。しっかりしてよ母さん。」
その泣き叫ぶ母の背中を
神戸から焼け出されて津田に来ていた
母の姉が、何時間も母の背中に
涙を落しながら、母の背中をなでていた。
その光景も昨日の事のように
私は覚えている。
一家の柱を失った名和家の悲痛の戦いが
ここから始まった。
安倍総理にも、
私が、これから書く文章を読んで
欲しいと思う。
そして、憲法改正を考え直して欲しい。
つづく・・・。
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