いよいよ、押し迫ってまいりました。
今年は、景気は悪くすべての事がつらい年でした。
来年こそは、新しい政治布陣で
少しでも光の射す年にしたいと思います。
60年前の戦後復興の時の事を思えば、
日本人はやれば出来るんです。
アジアの雄として、
世界の中の日本の力量を発揮出来るような
2013年にいたしましょう。
平和の中で、リーダーシップを発揮出来るような
そんな日本国にいたしましょう。
政界も財界も、そして、国民全体が幸福を
勝ち取りましょう。
本年のお引き立てを感謝し、
来年もよろしくご指導いただけますよう
お願い申し上げます。
2012年よ さようなら。
☆ イセザキ書房 年末年始の営業のお知らせ ☆
12月31日まで 通常通り
(平日・土 9:00~21:00
日・祝 11:00~21:00)
元旦・2・3日 お休み
4日から 通常通り
ご不便をおかけ致しますが、
よろしくお願い申し上げます。
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〒231-0055
神奈川県横浜市中区末吉町1-23
TEL: 045-261-3308
FAX: 045-261-3309
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2012年12月22日土曜日
出てきて欲しい素晴らしい大臣が
2012年12月16日の衆議院選挙は、
自民党の勝利とは私は思わない。
強いて云えば、民主党の敗北だったと
云うべきだと思う。
民主党は3年余の間に、国民に対して
何をしただろう。
そうそう、消費税を上げるという事があった。
そしてその時、自民党も巻き込まれて成立した。
私は、テレビの選挙速報を観ながら思いました。
丁度3年余前、この前の総選挙の時
テレビに映ったある場面を。
それは、民主党の菅氏が
小沢氏に満面の笑みを浮かべながら
「僕達の目の黒いうちにこうなるとは予想外でした。
感激です。」と。
私はその時、明日がどうなるか分からないけど
大政党の交代が出来た事が
余程嬉しかったのだろうと思った。
自分も総理大臣の椅子に座れる日が近づいたと思うと、
嬉しいのは当然かも分からないが。
そして、2代目の総理大臣の椅子に座るや否や
総理交替となった。
東京電力の事故があったとは云え、
はかない喜びだったんだなと思う。
投票率が60%を切るような総選挙では
私達もあまり大きな顔は出来ないと思う。
ミニ政党が沢山生まれたが、
充分に政見を聞く時間もなかった。
そんな中で、投票台の前に立つと
「いいや、民主はダメだから自民で行こう。」
となった人が多かったのだろうかと思う。
さて、自民公明の連立政権が出来ると思うが、
大臣になれる人は、それだけの見識と考えと努力と
国民を愛する気持ちの人が何人いるでしょうか。
人間だから当然、己の利害を先ず考えるのは
仕方ないとしても、ここ20年間位の間に
さすがと思う人は何人いたでしょう。
日本にだって人材はあるはずです。
経済の世界に目を移すとさすがと思う人が
どんどん出て来ております。
政界はどうでしょう。
「〇〇さんは、とてもいい方ですよ。
ぜひ、入れて下さいね。」
とよく云われますが、
私は商人ですから旗色は示しません。
新聞・テレビ・雑誌を読み、実際にいろいろ
いつも考えています。そして、自分で判断して、
これはもう絶対的なものではなく、比較しながら
選挙がある時も、ない時も、この人には出て欲しい、
この人ではだめだ、と常時考えております。
民主党で唯一いい事があったのは、
総理になった野田氏のスピーチが
だんだん良くなった事です。
政治家は、国民に対しても外国に対しても
分かり易く理解しやすく、外交の出来る事が
一番大切だと私は考えております。
もうすぐ、内閣の顔ぶれが出て来ますが、
考えのしっかりした方、
国家国民に真実奉仕の出来る方が
並んで欲しいと切望しています。
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自民党の勝利とは私は思わない。
強いて云えば、民主党の敗北だったと
云うべきだと思う。
民主党は3年余の間に、国民に対して
何をしただろう。
そうそう、消費税を上げるという事があった。
そしてその時、自民党も巻き込まれて成立した。
私は、テレビの選挙速報を観ながら思いました。
丁度3年余前、この前の総選挙の時
テレビに映ったある場面を。
それは、民主党の菅氏が
小沢氏に満面の笑みを浮かべながら
「僕達の目の黒いうちにこうなるとは予想外でした。
感激です。」と。
私はその時、明日がどうなるか分からないけど
大政党の交代が出来た事が
余程嬉しかったのだろうと思った。
自分も総理大臣の椅子に座れる日が近づいたと思うと、
嬉しいのは当然かも分からないが。
そして、2代目の総理大臣の椅子に座るや否や
総理交替となった。
東京電力の事故があったとは云え、
はかない喜びだったんだなと思う。
投票率が60%を切るような総選挙では
私達もあまり大きな顔は出来ないと思う。
ミニ政党が沢山生まれたが、
充分に政見を聞く時間もなかった。
そんな中で、投票台の前に立つと
「いいや、民主はダメだから自民で行こう。」
となった人が多かったのだろうかと思う。
さて、自民公明の連立政権が出来ると思うが、
大臣になれる人は、それだけの見識と考えと努力と
国民を愛する気持ちの人が何人いるでしょうか。
人間だから当然、己の利害を先ず考えるのは
仕方ないとしても、ここ20年間位の間に
さすがと思う人は何人いたでしょう。
日本にだって人材はあるはずです。
経済の世界に目を移すとさすがと思う人が
どんどん出て来ております。
政界はどうでしょう。
「〇〇さんは、とてもいい方ですよ。
ぜひ、入れて下さいね。」
とよく云われますが、
私は商人ですから旗色は示しません。
新聞・テレビ・雑誌を読み、実際にいろいろ
いつも考えています。そして、自分で判断して、
これはもう絶対的なものではなく、比較しながら
選挙がある時も、ない時も、この人には出て欲しい、
この人ではだめだ、と常時考えております。
民主党で唯一いい事があったのは、
総理になった野田氏のスピーチが
だんだん良くなった事です。
政治家は、国民に対しても外国に対しても
分かり易く理解しやすく、外交の出来る事が
一番大切だと私は考えております。
もうすぐ、内閣の顔ぶれが出て来ますが、
考えのしっかりした方、
国家国民に真実奉仕の出来る方が
並んで欲しいと切望しています。
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2012年12月15日土曜日
戦病死ではなく野垂れ死に
もう70年以上も前のこと。
太平洋戦争のことはほとんどの人が知らない。
又、歴史の本にもあまり詳しい事は出ていない。
戦争など全く無縁の人が大部分だろう。
私一人がどんなに怒り狂っても耳をかす人も
少ないだろう。
しかし、わたしは年月を追う毎に
私を頭に9才、7才、4才、2才、0才の子供、
65才以上の老父母と31才の妻を残して
召集兵として引っ張り出され、消耗品扱いにされた
父(吉光)の事は忘れようにも忘れられない。
どんなに楽しいこと、どんなに嬉しいことがあっても
父はこんな経験もせずに、苦しみ抜いて
誰にもみとられず、死んで行ったと思うと
この仇は、どうしても討たねばならない。
しかし、仇を討つにも誰がどこにいるか分からない。
結局、この戦争を始めた人、
そして、負け戦になっても、尚続行し、
兵士を人間として扱わず、物扱いにして
殺してしまった人。
東京裁判が正しかったのかどうか、
私には分からないけれど、戦争犯罪人と考えぜるを得ない。
そして、その人達も靖国神社に神として祀られている。
これも、国家のために尊い命を捧げた人として
考えるべきなのか。
冗談じゃない!
戦没者の6割強は、
餓死と飢え死に、野垂れ死にであったという事は
本にも書かれている。
私の父は、フィリピンルソン島の負け戦の時に
戦病死として昭和20年6月になっている。
野垂れ死にした後、2カ月で戦争は終わったのに。
そして、白木の箱が返って来たが、
開けてみると、細長い木札に名和吉光の霊として
書かれたものがポロンと一枚入っていただけ。
開けてみて、母、祖父母、私とすぐ下の妹は
オンオン泣いた。
下の3人は何かよく分からなかったらしい。
父と0才で別れた下の弟は、
「又、あの箱開けてみんなで泣こうよ。」といって
白木の箱を下げて来たりした。
木更津から南方へ向かう国鉄の汽車に
乗せられた時も、食べる物一切なし。
身を守る道具も何もなし。
父は、神戸を通る事を知って、
神戸の母の妹の家へ電報を打って
[ ナンデモイイカラ タベモノヲ トドケテクダサイ ]
と頼んだ。
神戸のおば夫婦は、おにぎりを作って、ある物全部
弁当箱に詰めて持って行ってくれた。
よくも生身の兵隊を移動させるのに
食べ物を何も与えないでやったものだと思う。
上の上の指示だと思うが、その又上の人が
私の仇打ちの相手だと思う。
そういう連中も皆、靖国神社に祀られている。
はずして下さい!戦犯の霊は!
純粋に国家のために犠牲になった
人間の魂だけにして下さい。
一旦、捧げたものは、おろせないという
神社の意見らしいが、私は、靖国神社へ行って、
その人達の位牌をぶち壊してやりたい。
年を重ねるにつれ、思いは強くなる。
私は戦勝国が、為政者の靖国参りを云々いうのは
当たり前だと思う。
もう、私の力では父の仇討ちもおぼつかない。
「靖国で会おうよ。」と本当に純粋な気持ちで
散っていった若者も大勢知っている。
そういう人達は、本当に神様として手を合わせたい。
しかし、戦争を指導した人物の霊は、靖国神社から
ぜひはずして下さい。
手を合わせる相手ではない人がいると思うと
靖国神社が穢れます。
純粋に国家のために犠牲になった人達には
私は、いつもいつも感謝の念で両手を合わせて
拝んでいる。
戦争犯罪者の霊は、靖国神社からはずして下さい。
お願いします。
ぜひ、お願いします。
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太平洋戦争のことはほとんどの人が知らない。
又、歴史の本にもあまり詳しい事は出ていない。
戦争など全く無縁の人が大部分だろう。
私一人がどんなに怒り狂っても耳をかす人も
少ないだろう。
しかし、わたしは年月を追う毎に
私を頭に9才、7才、4才、2才、0才の子供、
65才以上の老父母と31才の妻を残して
召集兵として引っ張り出され、消耗品扱いにされた
父(吉光)の事は忘れようにも忘れられない。
どんなに楽しいこと、どんなに嬉しいことがあっても
父はこんな経験もせずに、苦しみ抜いて
誰にもみとられず、死んで行ったと思うと
この仇は、どうしても討たねばならない。
しかし、仇を討つにも誰がどこにいるか分からない。
結局、この戦争を始めた人、
そして、負け戦になっても、尚続行し、
兵士を人間として扱わず、物扱いにして
殺してしまった人。
東京裁判が正しかったのかどうか、
私には分からないけれど、戦争犯罪人と考えぜるを得ない。
そして、その人達も靖国神社に神として祀られている。
これも、国家のために尊い命を捧げた人として
考えるべきなのか。
冗談じゃない!
戦没者の6割強は、
餓死と飢え死に、野垂れ死にであったという事は
本にも書かれている。
私の父は、フィリピンルソン島の負け戦の時に
戦病死として昭和20年6月になっている。
野垂れ死にした後、2カ月で戦争は終わったのに。
そして、白木の箱が返って来たが、
開けてみると、細長い木札に名和吉光の霊として
書かれたものがポロンと一枚入っていただけ。
開けてみて、母、祖父母、私とすぐ下の妹は
オンオン泣いた。
下の3人は何かよく分からなかったらしい。
父と0才で別れた下の弟は、
「又、あの箱開けてみんなで泣こうよ。」といって
白木の箱を下げて来たりした。
木更津から南方へ向かう国鉄の汽車に
乗せられた時も、食べる物一切なし。
身を守る道具も何もなし。
父は、神戸を通る事を知って、
神戸の母の妹の家へ電報を打って
[ ナンデモイイカラ タベモノヲ トドケテクダサイ ]
と頼んだ。
神戸のおば夫婦は、おにぎりを作って、ある物全部
弁当箱に詰めて持って行ってくれた。
よくも生身の兵隊を移動させるのに
食べ物を何も与えないでやったものだと思う。
上の上の指示だと思うが、その又上の人が
私の仇打ちの相手だと思う。
そういう連中も皆、靖国神社に祀られている。
はずして下さい!戦犯の霊は!
純粋に国家のために犠牲になった
人間の魂だけにして下さい。
一旦、捧げたものは、おろせないという
神社の意見らしいが、私は、靖国神社へ行って、
その人達の位牌をぶち壊してやりたい。
年を重ねるにつれ、思いは強くなる。
私は戦勝国が、為政者の靖国参りを云々いうのは
当たり前だと思う。
もう、私の力では父の仇討ちもおぼつかない。
「靖国で会おうよ。」と本当に純粋な気持ちで
散っていった若者も大勢知っている。
そういう人達は、本当に神様として手を合わせたい。
しかし、戦争を指導した人物の霊は、靖国神社から
ぜひはずして下さい。
手を合わせる相手ではない人がいると思うと
靖国神社が穢れます。
純粋に国家のために犠牲になった人達には
私は、いつもいつも感謝の念で両手を合わせて
拝んでいる。
戦争犯罪者の霊は、靖国神社からはずして下さい。
お願いします。
ぜひ、お願いします。
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2012年12月8日土曜日
召集兵の娘の決意
お父さん、今、どこから私を見ておられますか?
私は79才、お父さんの2倍以上の時間を
生きてまいりました。
あの日、昭和18年10月20日、
学校から帰って来たら、母が
「父ちゃんに召集令が来たんで。」
と今にも泣きそうな顔で、
「11月5日に佐世保軍へ入隊するんよ。」
と云いました。
佐世保。海軍。そうか、私の父の職業は
漁業だから海軍にやられるのか、
と私は思いました。
国民学校4年生、9才の私には
それ以上何も分かりませんでした。
親戚・縁者が、一人、二人と集まって来て
「吉光さん召集が来たんな。」
と口々に云っているのが私の耳に響く度に
何か大変な事が起きる前触れのような気がして
心細くなって恐ろしくて たまりませんでした。
妹7才と4才、弟2才と0歳だったんだ。
お父さんは33才、母は31才、
そして、祖父は64才、祖母は62才。
9人家族でとても楽しかった。
経済的にも何不自由なく、
5人兄弟、けんかしながら大きくなっていきました。
お父さんは、出征するまで十日間余りの間に
自分が居なくなっても、祖父達が困らないようにと
次々と仕事を片付けていきましたね。
それでも一日も欠かさず漁場は見てまわり、
出征前日11月4日の朝もヨドマル(蟹甲湾
一番の漁場)へ船を出し、ヨドマルの人達が
「名和の吉光さん召集令が来たと云うのに
今朝もヨドマルへ気とったけど、
あれ、うそだったのかいな。」
と口々に囁いていたそうです。
お父さんは、祖父への配慮もさる事ながら、
生まれ育ったこの海と、
物心ついてからずーっと過ごしてきた
我が大切な職場を目にやきつけて
おきたかったんですね。
そして、蟹甲湾を囲む雨滝山や火山、鷹島を
しっかり心の中に入れておきたかったんですね。
これを思うとお父さんの心情、痛い程分かって
とても悲しい。
その二・三日前、お父さん覚えていらっしゃいますか。
夕方、もう薄暗くなり始めた波打ち際近くの砂浜で
打ち寄せる波の音だけの静かな浜辺で
私と二人だけで何も云わず並んで座っていた
あの日の事を。
お父さんは何も云わない。
ただ、黙って海を見ているばかり。
私も何と云っていいのか言葉が出て来ない。
どれ程の時間が経ったでしょうか。
でもね、お父さん、お父さんは何も云わなかったけど
私にはお父さんの心の中、ビンビン伝わって
来ましたよ。
「智子よ。お前は一番大きいんだから
妹や弟の面倒を見てやってくれよ。
母ちゃんの云う事よく聞いて、
手助けしてあげてくれよ。
お前は、うんと勉強して必ず一流大学へ行けよ。
おじいさん、おばあさんは年寄りだから
大事にしてあげてくれよな。」
と聞こえて来ましたよ。
あぁ、その時、私は今でも忘れられない事が
あります。
「お父さんは、再びこの津田の海で泳ぐ事が
出来るだろうか?いや、津田の海でなくても
世界中のどこの海でもいいけれど、
再び海で泳ぐ事が出来るのだろうか?」
と,なぜか分からないけれど、私の心の中を
よぎった。
あの夕暮れの浜辺の父娘の光景は
私の心の中で一生忘れえない
大切な一枚の絵になりました。
十日間は瞬く間に過ぎ、終に出征の日が
やって来ました。
お父さんがこの家からいなくなる、
どうなるのだろうかと、とても不安いっぱいだった。
お父さんは、5人の子供の父であり、祖父母の一人息子であり
母の大切な夫だったんですもの。
でも、必ず元気で復員してくるから、それまでの
辛抱だと私は自分に云い聞かせました。
私は、お父さんのうごく方ばかり追っていました。
屋島のおじさん(母の弟)と話していたこと。
「兄さん、とにかく生きて帰って来て下さいよ。
生きて帰る事ばかり考えて下さいよ。
死んだらいかんで。
捕虜になってもいいから生きて帰って下さいよ。」
山田のおじさん(母の姉の夫) との話。
「吉光さん、死んだらいかんで。
生きて帰らないかんで。
絶対生きて帰って来いよ。
どんな事してでも生きて帰るんだよ。」
お父さんは
「この5人の子供をおいて死ねるもんですか。
必ず生きて帰ります。」
と云ったわね。
2人のおじさんとの話で私は恐ろしくて
泣きだしそうになりました。
そして、当日。
名和家の玄関には、近所の大勢の人が
集まって来て、みんな不安そうな様子だったのが
忘れられません。
祖母が玄関の片隅で両手を合わせ、
目をつむって何か必死で祈っていた姿を
思い出します。祖母は、
「私は駅へは行かんよ。ここで見送る。
吉光よ、体に気をつけてやれよ。」
と涙一滴こぼさず笑いながら
父の手を握りしめていた。
あの時の祖母の心の中を思うと
私は、たまらなくつらい、悲しい。
お父さんは、見送りの一人一人に
両手で手を しっかり握りしめ、
「○○さん、あとの事頼むで。」
「○○さん、後みてやってな。」
と何十人の人に云った事か。
私は、お父さんの後ろ髪引かれる思いが
ぐんぐん胸に迫って来ました。
家から駅まで何十人かの人が
日の丸の小旗を手に持って
歩いて送ってくれました。その道中でも
「○○さん、後頼むで。」・・・
と右に左に手を握りながら繰り返しておりました。
0才の弟は、何が起きているのかも分からず、
母の背にもたれたまま。
2才の弟は、父の上着の端を
しっかり握りしめて歩いていました。
妹2人は私と並んで父の後から
歩いて行きました。
駅頭には、一緒に出征する他の4人を含め、
5人で並びました。
みんな、30才を越えた妻子のある男ばかり。
むごい光景です。町長の祝辞と激励に言葉。
そして、万歳三唱。
召集兵を代表して、父の挨拶が始まりました。
お父さん、69年経った今も私の耳には
はっきり聞こえています。
「津田町の皆様、本日は私共召集兵5名の
出征を祝って、かくも盛大なお見送りを頂き、
有難うございました。この我が日本国家難局の折、
日本男子としてその戦列に加えていただける事を
この上もなく誇らしく思っております。
日本男子の本懐であります。
この戦争に勝つまでは、日本人は一丸となって
戦わねばなりません。拳命の働きをする覚悟をして、
本日、元気に出発いたします。
唯、家に残す5人の子供と老父母の事、
皆様に面倒かけると存じますが
何分にもよろしくお願い致します。
(お父さんは妻の事は何も云わなかったわね)
では、元気で行ってまいります。
有難うございました。」
あのやさしい父のどこに、こんな力強い声が
あったのだろうか。
公職についた事もない父が、こんな立派な言葉を
云えたのだろうか。
お父さんとの別れの悲しみ、挨拶の素晴らしさに
聞き惚れたのか、私は涙が止まりませんでした。
雨滝山からの西風にのって父の声は
ビンビンと響きました。津田町中に響き渡りました。
きっと、お父さんが愛してやまない
蟹甲湾の海の上にもきっと届いたと、思います。
海、津田の海も感動して聞いてくれた事でしょう。
これが、吉光の最初にして最後の演説だという事を
海は知っていたかも分かりません。
「まぁ、吉光さんの挨拶上手やったなぁー。」
という声があちらこちらからすすり泣きに混じって
聞こえて来ました。
その時祖母の従兄の八十吉(やそきち)さんが
終わるや否や走って祖母の所へ飛んで行き、
「ナカさん。(祖母の名前)立派な挨拶して
吉光さんは出発したよ。そりゃ立派だったよ。」
と息せき切って伝えてくれたそうです。
祖母は、嬉しかったのか悲しかったのか
八十吉さんにとりすがって大声で泣いたそうです。
あの気丈な女の祖母が。
高徳線に乗る直前、母が小さな声で
父に云ったのを私は聞いた。
「あんたの挨拶よかったと
みんなが褒めてくれとるで。」と。
母の父に対する一生に一番の
褒め言葉だったのではなかったかと
私は今、思っています。
こうして、18年11月5日。
生まれ育った津田を後にして、佐世保へ
出発しましたね。終に再び津田はおろか、
日本の土地を踏む事叶わず、
フィリピン、ルソン島で6月23日に戦病死、
つまり、野たれ死にしてしまいました。
後、2ヶ月弱で戦争は終わったのに。
くやしい、本当にくやしい。
お父さん、息の切れるその前に
母の顔見えましたか?
5人の子供達の一人一人の顔、
見えましたか?
かわいそうなお父さん。
34才で誰一人に看取られるところか
食べ物も水も何もない南の果てで
死んでしまった。
本当にかわいそうなお父さん。
今、私は思いだします。
宮本武蔵が佐々木小次郎を倒した時、
ふと、かなたに風車を持った小さな息子を見つけ、
「あの子が大きくなったら仇打ちされるかな。」
と云った事を。
私も一生かけても死んだ後でも
父を野たれ死にさせた人間に復讐します。
必ず必ず復讐します。
私は、日本人ですもの。
今、私を支えているのは父の復讐という
生き甲斐だけで生きております。
戦争にはヒーローはいない。
あるのは悲劇だけでした。
こんな事を知ってる人間の数も少なくなってしまいました。
-----------------------------------
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私は79才、お父さんの2倍以上の時間を
生きてまいりました。
あの日、昭和18年10月20日、
学校から帰って来たら、母が
「父ちゃんに召集令が来たんで。」
と今にも泣きそうな顔で、
「11月5日に佐世保軍へ入隊するんよ。」
と云いました。
佐世保。海軍。そうか、私の父の職業は
漁業だから海軍にやられるのか、
と私は思いました。
国民学校4年生、9才の私には
それ以上何も分かりませんでした。
親戚・縁者が、一人、二人と集まって来て
「吉光さん召集が来たんな。」
と口々に云っているのが私の耳に響く度に
何か大変な事が起きる前触れのような気がして
心細くなって恐ろしくて たまりませんでした。
妹7才と4才、弟2才と0歳だったんだ。
お父さんは33才、母は31才、
そして、祖父は64才、祖母は62才。
9人家族でとても楽しかった。
経済的にも何不自由なく、
5人兄弟、けんかしながら大きくなっていきました。
お父さんは、出征するまで十日間余りの間に
自分が居なくなっても、祖父達が困らないようにと
次々と仕事を片付けていきましたね。
それでも一日も欠かさず漁場は見てまわり、
出征前日11月4日の朝もヨドマル(蟹甲湾
一番の漁場)へ船を出し、ヨドマルの人達が
「名和の吉光さん召集令が来たと云うのに
今朝もヨドマルへ気とったけど、
あれ、うそだったのかいな。」
と口々に囁いていたそうです。
お父さんは、祖父への配慮もさる事ながら、
生まれ育ったこの海と、
物心ついてからずーっと過ごしてきた
我が大切な職場を目にやきつけて
おきたかったんですね。
そして、蟹甲湾を囲む雨滝山や火山、鷹島を
しっかり心の中に入れておきたかったんですね。
これを思うとお父さんの心情、痛い程分かって
とても悲しい。
その二・三日前、お父さん覚えていらっしゃいますか。
夕方、もう薄暗くなり始めた波打ち際近くの砂浜で
打ち寄せる波の音だけの静かな浜辺で
私と二人だけで何も云わず並んで座っていた
あの日の事を。
お父さんは何も云わない。
ただ、黙って海を見ているばかり。
私も何と云っていいのか言葉が出て来ない。
どれ程の時間が経ったでしょうか。
でもね、お父さん、お父さんは何も云わなかったけど
私にはお父さんの心の中、ビンビン伝わって
来ましたよ。
「智子よ。お前は一番大きいんだから
妹や弟の面倒を見てやってくれよ。
母ちゃんの云う事よく聞いて、
手助けしてあげてくれよ。
お前は、うんと勉強して必ず一流大学へ行けよ。
おじいさん、おばあさんは年寄りだから
大事にしてあげてくれよな。」
と聞こえて来ましたよ。
あぁ、その時、私は今でも忘れられない事が
あります。
「お父さんは、再びこの津田の海で泳ぐ事が
出来るだろうか?いや、津田の海でなくても
世界中のどこの海でもいいけれど、
再び海で泳ぐ事が出来るのだろうか?」
と,なぜか分からないけれど、私の心の中を
よぎった。
あの夕暮れの浜辺の父娘の光景は
私の心の中で一生忘れえない
大切な一枚の絵になりました。
十日間は瞬く間に過ぎ、終に出征の日が
やって来ました。
お父さんがこの家からいなくなる、
どうなるのだろうかと、とても不安いっぱいだった。
お父さんは、5人の子供の父であり、祖父母の一人息子であり
母の大切な夫だったんですもの。
でも、必ず元気で復員してくるから、それまでの
辛抱だと私は自分に云い聞かせました。
私は、お父さんのうごく方ばかり追っていました。
屋島のおじさん(母の弟)と話していたこと。
「兄さん、とにかく生きて帰って来て下さいよ。
生きて帰る事ばかり考えて下さいよ。
死んだらいかんで。
捕虜になってもいいから生きて帰って下さいよ。」
山田のおじさん(母の姉の夫) との話。
「吉光さん、死んだらいかんで。
生きて帰らないかんで。
絶対生きて帰って来いよ。
どんな事してでも生きて帰るんだよ。」
お父さんは
「この5人の子供をおいて死ねるもんですか。
必ず生きて帰ります。」
と云ったわね。
2人のおじさんとの話で私は恐ろしくて
泣きだしそうになりました。
そして、当日。
名和家の玄関には、近所の大勢の人が
集まって来て、みんな不安そうな様子だったのが
忘れられません。
祖母が玄関の片隅で両手を合わせ、
目をつむって何か必死で祈っていた姿を
思い出します。祖母は、
「私は駅へは行かんよ。ここで見送る。
吉光よ、体に気をつけてやれよ。」
と涙一滴こぼさず笑いながら
父の手を握りしめていた。
あの時の祖母の心の中を思うと
私は、たまらなくつらい、悲しい。
お父さんは、見送りの一人一人に
両手で手を しっかり握りしめ、
「○○さん、あとの事頼むで。」
「○○さん、後みてやってな。」
と何十人の人に云った事か。
私は、お父さんの後ろ髪引かれる思いが
ぐんぐん胸に迫って来ました。
家から駅まで何十人かの人が
日の丸の小旗を手に持って
歩いて送ってくれました。その道中でも
「○○さん、後頼むで。」・・・
と右に左に手を握りながら繰り返しておりました。
0才の弟は、何が起きているのかも分からず、
母の背にもたれたまま。
2才の弟は、父の上着の端を
しっかり握りしめて歩いていました。
妹2人は私と並んで父の後から
歩いて行きました。
駅頭には、一緒に出征する他の4人を含め、
5人で並びました。
みんな、30才を越えた妻子のある男ばかり。
むごい光景です。町長の祝辞と激励に言葉。
そして、万歳三唱。
召集兵を代表して、父の挨拶が始まりました。
お父さん、69年経った今も私の耳には
はっきり聞こえています。
「津田町の皆様、本日は私共召集兵5名の
出征を祝って、かくも盛大なお見送りを頂き、
有難うございました。この我が日本国家難局の折、
日本男子としてその戦列に加えていただける事を
この上もなく誇らしく思っております。
日本男子の本懐であります。
この戦争に勝つまでは、日本人は一丸となって
戦わねばなりません。拳命の働きをする覚悟をして、
本日、元気に出発いたします。
唯、家に残す5人の子供と老父母の事、
皆様に面倒かけると存じますが
何分にもよろしくお願い致します。
(お父さんは妻の事は何も云わなかったわね)
では、元気で行ってまいります。
有難うございました。」
あのやさしい父のどこに、こんな力強い声が
あったのだろうか。
公職についた事もない父が、こんな立派な言葉を
云えたのだろうか。
お父さんとの別れの悲しみ、挨拶の素晴らしさに
聞き惚れたのか、私は涙が止まりませんでした。
雨滝山からの西風にのって父の声は
ビンビンと響きました。津田町中に響き渡りました。
きっと、お父さんが愛してやまない
蟹甲湾の海の上にもきっと届いたと、思います。
海、津田の海も感動して聞いてくれた事でしょう。
これが、吉光の最初にして最後の演説だという事を
海は知っていたかも分かりません。
「まぁ、吉光さんの挨拶上手やったなぁー。」
という声があちらこちらからすすり泣きに混じって
聞こえて来ました。
その時祖母の従兄の八十吉(やそきち)さんが
終わるや否や走って祖母の所へ飛んで行き、
「ナカさん。(祖母の名前)立派な挨拶して
吉光さんは出発したよ。そりゃ立派だったよ。」
と息せき切って伝えてくれたそうです。
祖母は、嬉しかったのか悲しかったのか
八十吉さんにとりすがって大声で泣いたそうです。
あの気丈な女の祖母が。
高徳線に乗る直前、母が小さな声で
父に云ったのを私は聞いた。
「あんたの挨拶よかったと
みんなが褒めてくれとるで。」と。
母の父に対する一生に一番の
褒め言葉だったのではなかったかと
私は今、思っています。
こうして、18年11月5日。
生まれ育った津田を後にして、佐世保へ
出発しましたね。終に再び津田はおろか、
日本の土地を踏む事叶わず、
フィリピン、ルソン島で6月23日に戦病死、
つまり、野たれ死にしてしまいました。
後、2ヶ月弱で戦争は終わったのに。
くやしい、本当にくやしい。
お父さん、息の切れるその前に
母の顔見えましたか?
5人の子供達の一人一人の顔、
見えましたか?
かわいそうなお父さん。
34才で誰一人に看取られるところか
食べ物も水も何もない南の果てで
死んでしまった。
本当にかわいそうなお父さん。
今、私は思いだします。
宮本武蔵が佐々木小次郎を倒した時、
ふと、かなたに風車を持った小さな息子を見つけ、
「あの子が大きくなったら仇打ちされるかな。」
と云った事を。
私も一生かけても死んだ後でも
父を野たれ死にさせた人間に復讐します。
必ず必ず復讐します。
私は、日本人ですもの。
今、私を支えているのは父の復讐という
生き甲斐だけで生きております。
戦争にはヒーローはいない。
あるのは悲劇だけでした。
こんな事を知ってる人間の数も少なくなってしまいました。
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2012年12月1日土曜日
地球時代
言語としては、沢山ある中で英語が一番強い。
ヨーロッパ旅行の時も、英語がやはり優勢である。
だから、みんな英語を学びたいと思うのは当然。
ある会社では、社内での私用語も
すべて英語に かえたらしい。
外国との取引が多ければそうなるのもうなずける。
しかし、私達は日本人。
何をおいても先ず、日本語の読み書きを
おろそかにしてはいけません。
日本人である事をしっかり心の支えとして、
日本語は非常に難しいので
きちんと学んでおかねばならない。
機械化の時代から、情報化の時代に
移りつつある現在、便利であるというだけで
生活全般に至って新しい道具だてを揃え、
それを主流にするには考えなくてはならない事が
沢山ある。
近頃、毎日のように、殺した殺されたという情報が
流され通しだが、よーく考えてみると、
情報化時代の道具が使われている場合が
だんだん多くなってきた。
要は、こういう物は使い方次第で
良くも悪くもなるという事を、
私達はしっかり頭の中に入れておかねばならない。
殺人予備軍は、どんどん増えている。
住所不定・無職と、必ず肩書に出る。
仕事は減っているかもしれないが、
人間も減っているのだから、そのつもりになれば
何か仕事はあると思う。
現に、店頭張紙がチョロチョロ見えはじめている。
私は、街を歩きながらいつも 《 求人広告 》 を
注意して見ている。
じっと見ていると、時代の流れを映しているので
今、人間の流れはどうなっているかよく分かるし、
景気の善し悪しを書いてあるようなものに
見えてくる。
30年前の本当に人手不足の時は、
軒並みに張ってあった。
今は、主として飲食関係の店が人手不足らしく
思える。夜中まで開店しているような店は
時給はそれなりに高い。
だから、本当に真摯にコツコツと生きてゆこうと
思えば、無職・住所不定には、ならなくてすむ。
真剣に生きようと考えている人には
他人を殺してまで大金を奪おうとする発想は
思い及ばない。
東南アジアからも稼ぎを目的として
来日している人も多い。
時にして、何かの犯罪の中に巻き込まれたのか
巻きこむのか、あまり珍しい現象ではなくなった。
私達は、日本人であるという事を
しっかり胸に抱いておいて欲しい。
外交は、一番大切な仕事です。
政治家も外交の出来る人が
浮かび上がってくるとくると思う。
しかし、政治家でない私達一般庶民も
世界中の人と素晴らしい競争と、
そして、外交をやる必要があるように
私は思っている。
向う3軒隣りに外国人が混ざっているのは
珍しくない。
一寸つき合うには 難しい面もあるけれど、
時代はそちらに進んでいる。
地球全体が皆ひとつ。
いつの日か(私は勿論生きてないと思うけど)
地球と他の ★星★ が戦争をするような日も
来るかも分からない。
本当に宇宙の果てはどうなっているのだろうか?
先ずは、足元をしっかり踏み込めて
地球の中の選ばれた国家 “ 日本 ”に
なれるように、みんな、みんな努力しましょう!
勉強しましょう!本を読みましょう!
人間の幸は、目的に向かって
何度も、何度も再チャレンジしながら
生きてゆく事ではないでしょうか?
∞ 私が今、2度目に亙って読んでいる本 ∞
『その気の法則』
ダイヤモンド社 発行
西田 文郎 著
面白い本とは申しません。
生きるために役立つ本と云うべきでしょうか。
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