2012年12月8日土曜日

召集兵の娘の決意

お父さん、今、どこから私を見ておられますか?
私は79才、お父さんの2倍以上の時間を
生きてまいりました。

あの日、昭和18年10月20日、
学校から帰って来たら、母が
「父ちゃんに召集令が来たんで。」
と今にも泣きそうな顔で、
「11月5日に佐世保軍へ入隊するんよ。」
と云いました。
佐世保。海軍。そうか、私の父の職業は
漁業だから海軍にやられるのか、
と私は思いました。
国民学校4年生、9才の私には
それ以上何も分かりませんでした。

親戚・縁者が、一人、二人と集まって来て
「吉光さん召集が来たんな。」
と口々に云っているのが私の耳に響く度に
何か大変な事が起きる前触れのような気がして
心細くなって恐ろしくて たまりませんでした。

妹7才と4才、弟2才と0歳だったんだ。
お父さんは33才、母は31才、
そして、祖父は64才、祖母は62才。
9人家族でとても楽しかった。
経済的にも何不自由なく、
5人兄弟、けんかしながら大きくなっていきました。

お父さんは、出征するまで十日間余りの間に
自分が居なくなっても、祖父達が困らないようにと
次々と仕事を片付けていきましたね。
それでも一日も欠かさず漁場は見てまわり、
出征前日11月4日の朝もヨドマル(蟹甲湾
一番の漁場)へ船を出し、ヨドマルの人達が
「名和の吉光さん召集令が来たと云うのに
今朝もヨドマルへ気とったけど、
あれ、うそだったのかいな。」
と口々に囁いていたそうです。
お父さんは、祖父への配慮もさる事ながら、
生まれ育ったこの海と、
物心ついてからずーっと過ごしてきた
我が大切な職場を目にやきつけて
おきたかったんですね。

そして、蟹甲湾を囲む雨滝山や火山、鷹島を
しっかり心の中に入れておきたかったんですね。
これを思うとお父さんの心情、痛い程分かって
とても悲しい。

その二・三日前、お父さん覚えていらっしゃいますか。
夕方、もう薄暗くなり始めた波打ち際近くの砂浜で
打ち寄せる波の音だけの静かな浜辺で
私と二人だけで何も云わず並んで座っていた
あの日の事を。

お父さんは何も云わない。
ただ、黙って海を見ているばかり。
私も何と云っていいのか言葉が出て来ない。
どれ程の時間が経ったでしょうか。

でもね、お父さん、お父さんは何も云わなかったけど
私にはお父さんの心の中、ビンビン伝わって
来ましたよ。

「智子よ。お前は一番大きいんだから
妹や弟の面倒を見てやってくれよ。
母ちゃんの云う事よく聞いて、
手助けしてあげてくれよ。
お前は、うんと勉強して必ず一流大学へ行けよ。
おじいさん、おばあさんは年寄りだから
大事にしてあげてくれよな。」
と聞こえて来ましたよ。

あぁ、その時、私は今でも忘れられない事が
あります。
「お父さんは、再びこの津田の海で泳ぐ事が
出来るだろうか?いや、津田の海でなくても
世界中のどこの海でもいいけれど、
再び海で泳ぐ事が出来るのだろうか?」

と,なぜか分からないけれど、私の心の中を
よぎった。
あの夕暮れの浜辺の父娘の光景は
私の心の中で一生忘れえない
大切な一枚の絵になりました。

十日間は瞬く間に過ぎ、終に出征の日が
やって来ました。
お父さんがこの家からいなくなる、
どうなるのだろうかと、とても不安いっぱいだった。
お父さんは、5人の子供の父であり、祖父母の一人息子であり
母の大切な夫だったんですもの。

でも、必ず元気で復員してくるから、それまでの
辛抱だと私は自分に云い聞かせました。
私は、お父さんのうごく方ばかり追っていました。
屋島のおじさん(母の弟)と話していたこと。
「兄さん、とにかく生きて帰って来て下さいよ。
生きて帰る事ばかり考えて下さいよ。
死んだらいかんで。
捕虜になってもいいから生きて帰って下さいよ。」
山田のおじさん(母の姉の夫) との話。
「吉光さん、死んだらいかんで。
生きて帰らないかんで。
絶対生きて帰って来いよ。
どんな事してでも生きて帰るんだよ。」

お父さんは
「この5人の子供をおいて死ねるもんですか。
必ず生きて帰ります。」
と云ったわね。
2人のおじさんとの話で私は恐ろしくて
泣きだしそうになりました。

そして、当日。
名和家の玄関には、近所の大勢の人が
集まって来て、みんな不安そうな様子だったのが
忘れられません。

祖母が玄関の片隅で両手を合わせ、
目をつむって何か必死で祈っていた姿を
思い出します。祖母は、
「私は駅へは行かんよ。ここで見送る。
吉光よ、体に気をつけてやれよ。」
と涙一滴こぼさず笑いながら
父の手を握りしめていた。
あの時の祖母の心の中を思うと
私は、たまらなくつらい、悲しい。

お父さんは、見送りの一人一人に
両手で手を しっかり握りしめ、
「○○さん、あとの事頼むで。」
「○○さん、後みてやってな。」
と何十人の人に云った事か。
私は、お父さんの後ろ髪引かれる思いが
ぐんぐん胸に迫って来ました。
家から駅まで何十人かの人が
日の丸の小旗を手に持って
歩いて送ってくれました。その道中でも
「○○さん、後頼むで。」・・・
と右に左に手を握りながら繰り返しておりました。

0才の弟は、何が起きているのかも分からず、
母の背にもたれたまま。
2才の弟は、父の上着の端を
しっかり握りしめて歩いていました。
妹2人は私と並んで父の後から
歩いて行きました。

駅頭には、一緒に出征する他の4人を含め、
5人で並びました。
みんな、30才を越えた妻子のある男ばかり。
むごい光景です。町長の祝辞と激励に言葉。
そして、万歳三唱。
召集兵を代表して、父の挨拶が始まりました。
お父さん、69年経った今も私の耳には
はっきり聞こえています。

「津田町の皆様、本日は私共召集兵5名の
出征を祝って、かくも盛大なお見送りを頂き、
有難うございました。この我が日本国家難局の折、
日本男子としてその戦列に加えていただける事を
この上もなく誇らしく思っております。
日本男子の本懐であります。
この戦争に勝つまでは、日本人は一丸となって
戦わねばなりません。拳命の働きをする覚悟をして、
本日、元気に出発いたします。
唯、家に残す5人の子供と老父母の事、
皆様に面倒かけると存じますが
何分にもよろしくお願い致します。
(お父さんは妻の事は何も云わなかったわね)
では、元気で行ってまいります。
有難うございました。」

あのやさしい父のどこに、こんな力強い声が
あったのだろうか。
公職についた事もない父が、こんな立派な言葉を
云えたのだろうか。
お父さんとの別れの悲しみ、挨拶の素晴らしさに
聞き惚れたのか、私は涙が止まりませんでした。

雨滝山からの西風にのって父の声は
ビンビンと響きました。津田町中に響き渡りました。
きっと、お父さんが愛してやまない
蟹甲湾の海の上にもきっと届いたと、思います。
海、津田の海も感動して聞いてくれた事でしょう。
これが、吉光の最初にして最後の演説だという事を
海は知っていたかも分かりません。

「まぁ、吉光さんの挨拶上手やったなぁー。」
という声があちらこちらからすすり泣きに混じって
聞こえて来ました。
その時祖母の従兄の八十吉(やそきち)さんが
終わるや否や走って祖母の所へ飛んで行き、
「ナカさん。(祖母の名前)立派な挨拶して
吉光さんは出発したよ。そりゃ立派だったよ。」
と息せき切って伝えてくれたそうです。
祖母は、嬉しかったのか悲しかったのか
八十吉さんにとりすがって大声で泣いたそうです。
あの気丈な女の祖母が。

高徳線に乗る直前、母が小さな声で
父に云ったのを私は聞いた。
「あんたの挨拶よかったと
みんなが褒めてくれとるで。」と。
母の父に対する一生に一番の
褒め言葉だったのではなかったかと
私は今、思っています。

こうして、18年11月5日。
生まれ育った津田を後にして、佐世保へ
出発しましたね。終に再び津田はおろか、
日本の土地を踏む事叶わず、
フィリピン、ルソン島で6月23日に戦病死、
つまり、野たれ死にしてしまいました。
後、2ヶ月弱で戦争は終わったのに。
くやしい、本当にくやしい。

お父さん、息の切れるその前に
母の顔見えましたか?
5人の子供達の一人一人の顔、
見えましたか?
かわいそうなお父さん。
34才で誰一人に看取られるところか
食べ物も水も何もない南の果てで
死んでしまった。
本当にかわいそうなお父さん。

今、私は思いだします。
宮本武蔵が佐々木小次郎を倒した時、
ふと、かなたに風車を持った小さな息子を見つけ、
「あの子が大きくなったら仇打ちされるかな。」
と云った事を。

私も一生かけても死んだ後でも
父を野たれ死にさせた人間に復讐します。
必ず必ず復讐します。
私は、日本人ですもの。
今、私を支えているのは父の復讐という
生き甲斐だけで生きております。

戦争にはヒーローはいない。
あるのは悲劇だけでした。

こんな事を知ってる人間の数も少なくなってしまいました。



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