2007年10月13日土曜日

召集兵の娘の決意 

お父さん、今どこから私を見ておられますか
私は74才、お父さんの2倍の時間を生きてまいりました

あの日、昭和18年10月20日学校から帰ってきたら母が「父ちゃんに召集令が来たんで」と今にも泣きそうな顔で「11月5日に佐世保海軍へ入隊するんよ」と言いました。
佐世保の海軍。そうか父の職業は漁業だから海軍にやられるのかと私は思いました。
国民学校4年生9才の私にはそれ以上分かりませんでした。

親類、縁者がひとりふたりと集まって来て「吉光さんに召集が来たんな」と口々に云っているのが私の耳に囁く度に何か大変な事が起こる前ぶれのような気がして心細くなって恐ろしくてたまりませんでした

妹7才と4才、弟2才と0才だったんだ。お父さんは33才母は31才そして祖父は64才祖母は62才。
9人家族でとても楽しかった。経済的にも何不自由なく5人兄弟喧嘩しながら大きくなっていきました。

お父さんは出征するまで十日余りの間に自分が居なくなっても祖父達が困らぬようにと次々と仕事を片付けてきましたね。それでも一日も欠かさず漁場を見てまわり出征日の十一月四日の朝もヨドマル(蟹甲湾一番の漁場)へ船を出し、ヨドマルの人達が「名和の吉光さんに召集が来たというのに今朝もヨドマルへ来とったけどあれはウソだったのかいな」と口々にささやいていたそうです。
お父さんは祖父への配慮もさる事ながら生まれ育ったこの海と物心ついてからず~っと我が大切な職場を目にやきつけておきたかったんですね。

そして蟹甲湾を囲む雨滝山や火山、タカ島をしっかり心の中に入れておきたかったんですね。
これを思うとお父さんの心情、痛いほど分かってとても悲しい。

その二・三日前、お父さん覚えていらっしゃいますか。
夕方もうす暗くなり初めた波打ちぎわ近くの砂浜で打ち寄せる波の音だけの静かな浜辺で私と二人だけで何も云わず並んで座っていたあのときの事を。
お父さんは何も云わない。ただ黙って海を見ているばかり。
私も何と云っていいのか言葉が出て来ない。
どれ程の時間が経ったでしょうか。

でもね、お父さん、お父さんは何も云えなかったけど私にはお父さんの心の中、ビンビンに伝わってきましたよ。

「智子よ、お前は一番大きいんだから妹や弟の面倒をみてやってくれよ、母ちゃんの云う事をよく聞いて手助けしてあげてくれよ。お前はうんと勉強して一流大学へ行けよ。おじいさんとおばあさんは年寄りだから大事にしてあげてくれよな」と聞こえて来ましたよ。
ああ、その時私は今でも忘れられないことがあります。
(お父さんは再びこの津田の海に泳ぐ事が出来るだろうか。いや津田の海でなくても世界中のどこの海でもいいけれど再び海で泳ぐ事が出来るだろうか)と。なぜか分からないけれど私の心の中をよぎった。
あの夕暮れの浜辺の父娘の光景は私の心の中で一生忘れえない大切な素敵な一枚の絵になりました。

十日間はまたたく間に過ぎ終に出征の日がやってきました。
お父さんがこの家から居なくなる、どうなるのだろうかととても不安いっぱいだった。
お父さんは父であり祖父母の一人息子であり母の大切な夫だったんですもの。

でも必ず元気で復員してくるからそれまでの辛抱だと私は自分に言い聞かせました。
私はお父さんの動く方ばかり追っていました。
屋島のおじさん(母の弟)と話していたこと。
「兄さん、とにかく生きて帰って来て下さいよ、生きてる事ばかり考えて下さいよ、死んだらいかんで。捕虜になってもいいから生きて帰って下さいよ」
山田のおじさん(母の姉の夫)との話。
「吉光さん死んだらいかんで、生きて帰えらないかんで。絶対生きて帰って来いよ、どんな事をしてでも生きて帰るんだよ」

お父さんは「この5人の子供を置いて死ねるもんですか、必ず生きて帰ります」と云ったわね。
二人のおじさんとの話で私は恐ろしくて泣き出しそうになりました。

そして当日、名和家の玄関には近所の大勢の人が集まってきて皆不安そうな様子だったのが忘れられません。

祖母は玄関の片隅で両手を会わせ目を瞑って何かを必死に祈っていた姿を思い出します。
祖母は「私は駅へ行かんよ。ここで見送る。吉光よ体に気をつけてやれよ」と涙一滴こぼさず笑いながら父の手を握り締めていたあの時の祖母の心中を思うと私はたまらなく辛い。悲しい。

お父さんは見送りの一人一人に両手でしっかり手を握り締め(○○さん後のこと頼むで)  (○○さんあと見てやってくださいね)と何人の人に言ったことか。
私はお父さんの後ろ髪惹かれる思いがぐんぐん胸にせまってきました。
家から駅まで何十人の人が日の丸の旗を手に持って歩いて送ってくれました。
その道中でも(○○さん後頼むで)と右に左に手を握りながら繰り返しておりました。

0才の弟は母に背負われて何が起きているかもわからず背にもたれたまま。
二才の弟は父の上着の端をしっかり握り締めて歩いて行きました。
(父ちゃんどこへも行っちゃいや)という言葉に見えました。
妹二人は私と並んで父の後ろから歩いて行きました。

駅頭には一緒に出征する他の四人を含め五人で並びました。
みんな三十歳を超えた妻子のある男ばかり。むごい光景です。
町長の祝辞、激励の言葉がありそして万歳三唱。
それから召集兵を代表して父の挨拶が始まりました。
お父さん65年たった今も私の耳にははっきり聞こえてまいります。

「津田町の皆様 本日は私共召集兵五名の出征を祝ってかくも盛大なお見送りを頂きありがとうございました この我が日本国家難局の折、日本男子としてその戦列に加えて頂ける事をこの上もなく誇らしく思っております、日本男子の本懐であります。この戦争に勝つまでは、日本人は一丸となって戦わねばなりません。懸命の働きをする覚悟をし本日元気に出発いたします。
ただ家に残す五人の子供と老父母の事皆様にご面倒をかけると存じますが何分にもよろしくお願いいたします。では元気で行って参ります。有難うございました」

(お父さんは妻の事は何も云わなかったわね)

あの優しい父のどこにこんな力強い声があったのだろうか。公職についた事もない父がこんな立派な言葉を言えたのだろうか。
お父さんとの別れの悲しみ、挨拶の素晴らしさに聞きほれたのか私は涙が止まりませんでした。
雨滝山からの西風に乗って父の声はビンビン響きました。
津田町中に響き渡りました。
きっとお父さんが愛してやまない蟹甲湾の海の上にも届いたと思います。
海。津田の海も感動して聞いてくれたことでしょう。
これが吉光の最初にして最後の演説だという事を海は知っていたかも分かりません。

(まぁ 吉光さんの挨拶上手やったなぁ~)という声がすすり泣きにまじって聞こえてきました。
その時祖母の従弟の八十吉(やそきち)さんが終わるやいなや走って走って祖母の所に飛んで行き「ナカさん(祖母の名前)立派な挨拶して吉光さんは出発したよ。そりゃぁ立派だったよ」と息せききって伝えてくれたそうです。
祖母は嬉しかったのか悲しかったのか八十吉さんにとりすがって大声で泣いたそうです。
あの気丈な女の祖母が。

高徳線に乗る直前母は小さな声で父に言ったの私は聞いた
「あんたの挨拶良かったと皆が褒めてくれとるで」と。
母の父に対する一生に一番の褒め言葉だったのではなかろうと私は今思っています。

こうして18年11月5日生まれ育った津田を後にして佐世保へ出発しましたね。
終に再び津田はおろか日本の土地を踏むこと叶わずフィリピンルソン島で6月23日に戦病死つまりのたれ死にしてしまいました。あと二ヶ月弱で戦争は終わったのに。
くやしい。本当にくやしい。

お父さん息の切れる直前に母の顔見えましたか。五人の子供達の一人一人の顔見えましたか。
老父母の顔見えましたか。可哀想なお父さん。34才で誰一人に見取られるどころか食べ物も水も何もないお南の果てで死んでしまった。
本当に可哀想なお父さん。

今私は思います。宮本武蔵が佐々木小次郎を倒したときふとかなたに風車を持った小さな息子を見つけ(あの子が大きくなったらあだ討ちされるかな)と云った事を。

私も一生かけても死んだ後でも父をのたれ死にさせた人間に復讐します。
必ず必ず復讐します。私は日本人ですもの。
今、私を支えているのは父への復讐という気概だけで生きております。
戦争にはヒーローはいない。あるのは悲劇だけでした。

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