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2013年9月14日土曜日

一人一人が社会の為に何かを背負う

私は10代の頃より京大法学部を目指して
その後アメリカに行こうと考えていた。
出来ると充分に思っていた。

ところが女学校1年生の時
父の戦病死の報が届いた
戦死ではなく戦病死。
これは野垂れ死にだ。

祖父母は、大切な一人息子を失い
母は最愛の夫を亡くした。
そして女学校1年生の私を頭に
妹2人、弟2人、5人の兄弟は
大切な父を失った。

私の家は何もかも全てが狂ってしまった。

当時、日本は若い者も
子供のあるような中年男も
元気な者はみんな戦場へ送られた。

食う物も体を守る道具も何も持たせず、
唯唯、南の島へ兵隊として送り込んだ。
私の父も最高齢の中に加えられた。

私は、昭和の初めの頃から
敗戦国になるまでの様子を書かれた本を
探したが、一冊もなかった。
去年あたりから、総理の言葉によるものかどうか
ぽつぽつ見かけるようになり
その一冊一冊を手当たり次第読んでいる。

でも私の考えている私の父の仇は
一人ではない。
そういう流れを造った人は何人もいる。
「死んでもよい。靖国で会おうよ。」と云って。
それを信じて南の島に、南の海に果てた人達。
この人達を祀っている靖国神社は
常に問題にされる。
その中から私が書く訳にはゆかないが
戦争責任者を全部おろして欲しい。
そして、靖国神社は国家国民の為に
犠牲になったかわいそうな人の為だけの
神社に早くして欲しい。

色々な本を読んでいるうちに
私も80才を越えた今、
ようやく戦争責任者の名前が少しずつ
分かり始めた。しかし、書く事は出来ない。

国家として戦争責任者の霊は
全部おろして下さい。
どうしても祀りたいなら
どこか遠くへ別に作りたい人に作って
もらいましょう。

私ばかりではない私のような立場の人間が
敵の中にも日本人の中にも
数え切れない程いるんだ。
そして、もうすぐ一人一人死んで行って
第二次世界大戦の歴史として
一くくりにされてしまうだろう。

戦争はダメ。何をしてもダメ。
総理がトップに立って出て行かれますか。

苦しみも悲しさも癒え四分の三世紀。
苦しい中を歩んできました。
これでも、私は何かを残して行こうと思っている。









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2013年8月24日土曜日

庶民の大半は苦しんでいる

昨年あたりから、ボツボツ昭和時代の歴史についての
本が出始めた。
大きな老舗雑誌の記事にも掲載され始めた。

私は父を第二次世界大戦で
戦病死という事になっている死なせ方をさせられたので
父の仇を打ちたくて一生懸命本を探した。
明治維新までは立派な文章で書かれているが
その後は書ける人はいなかったのか
書いても売れないと思ったのかほとんどなかった。
ボツボツ出始めてはいるが、直接体験した人は
もういない。
みんな遺族を訪ねたり、その時の様子から
察して書いている。
それでも私は見つかり次第読んだ。

①『昭和史の大河を往く 第1集
  「靖国」という悩み』
 保坂正康 著
 毎日新聞社



















 ②『昭和の大河を往く 第2集
  開戦、東条英機が泣いた』
  保坂正康 著
  毎日新聞社



















③『戦艦大和 最後の証言』
  久山忍 著
 産経新聞出版



















私はこれからも次々読んでゆくつもりだ。
色々複雑な絡まりが沢山あった事はあったらしい。
昭和20年代は、一にも二にも国を立て直す事に
日本人は夢中になった。
だから、みんな必死で働いた。
おかげで食べられるようになり、住む所も出来、
着るものもどんどん新しいものが作られる。
そんな中で高度成長時代を謳歌した。

その初頭の頃、私は社会へ出た。
結婚相手は商人がよいとあまり時代を読めない母。
いやこれからはもうサラリーマン時代だよという
おじの言葉。
そんな時、出会った亡き夫。
タイプとしては好ましかった。
そして、話す事か実に整然としていて
こういう人と生きてゆけば幸だろうなと思った。
しかし、結婚してみると性格的に自分本位、自分中心。
妻は命令に全て従わさせられ、
私は何度離婚を考えた事か。
その夫は61才(その10年位前から体調が悪く
非常に自分勝手な生活をした)で
食道癌で亡くなった。

小さな店を続けるか止めるか考えた。
思えばこれからは私の自由の時代になったんだと思うと
どうせ私も59才。
今から出直す方法もない。
商売は嫌いではない、よし、やってみよう。
と以後は私の考えで事を進めた。
その時、ハタと気付いた。
夫は厳しい人だったけど、
新しい事を生みだす、考え出す事には秀でていたので
小さい店でもひとつひとつ新しいアイデアで事を進めて来た。
私は、唯云われる通り働いてきただけだったと気付いた。
夫の書いてあったメモを集めて読んだり、
本を読む時間も出来た。

そして、もう高度経済成長は終わった。
零細企業の苦しい時期に入った。
政治をする方々はこの苦しみは分からないと思う。
デフレをインフレにする。
私の頭ではよく分からない。
インフレに苦しめられた時の事が忘れられない。
人口が減るから女性も働き手として参加すべし。
それも分かるけど、女性が出て来過ぎると
これ又マイナス面が必ず出てくる。
女性の上司に仕える男性の気持ちはどうだろう。
私は総体的に能力は女性より男性の方が
優れていると思っている。すべての面で。

又、女性は子育てという仕事は絶対欠かせない。
男性がやっても悪くないが、
感性の問題があるので母親が一番。
5・6才までは母の肌に支えられて育てた方が
人間的にベターだと私は思っている。

そうして考えてゆくと昔の日本の大家族主義は
反面非常に合理的だったと思う。
もうそこへ戻れないだろうけど、
姑、姑の教えというのも悪い所ばかりではない。

とにかく政治も大変だろうけど国民一人一人、
恵まれない人がどんどん増えている事も事実。
どうすればこの現実を政治家に分かってもらえるだろうか。





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2013年7月13日土曜日

第2次世界大戦をはじめたのは?

安倍総理が一生懸命に動かれている様子を
色々なメディアからよく分かります。
でも、私には≪アベノミクス≫という 事が
よく分かりません。
私のような低レベルの国民は多いと思います。

景気をよくする為にデフレからインフレにする。
しかも、インフレ率は2%位にする。
もうこの辺りから、私は理解は止まってしまいます。
インフレなんてものは何%にするといって
定まるものではありません。
消費税は高いより安い方を好みます。
そして、消費税をこの場に立って上げるということ。
これも私は理解できません。
消費税率が動くと、流通業者は大変仕事が増えて
苦労します。
消費税が10%になったら何物にかかわらず
値上げ、そして売れる、数は必ず減ります。

安倍総理は、お坊っちゃん育ちですから
何というか生活する実感が
私たち一般市民とは大分違います。
当然のことかも分かりませんが。
先ず、景気をよくするという事で
手を打たれているのは当然だし
素敵な事だと思いますが、
今は、地球全体が戦国時代のような
時代だと思いますので
そう簡単にゆかないという事も
私でも理解できます。

又、テレビ放送によると
福祉関連が年寄りのほうへ動き過ぎているので
若い者にも平等にと云ったか、平均的にと云ったか
重点を移すべきだと云っておりました。
どの年令からというのか分かりませんが
私は、自分が80才になってみて
体力が若い時(30・40・50代)とは
変わってきた事を実感しております。
そして、20才代の始めから健保、国民年金は
税金を納めるような覚悟でずーっと
支払ってまいりました。
その当時、自分が受給者になる事など
考えの中にありませんでした。
必死で支払って来たのです。
だから、若い間(60才定年ならそれまで)は支払う。
そして、動けなくなった時、支払って来たぶんを
その恩恵を受けるという事でよろしいと
私は思います。若い時(30 40 50代)は
働く、広い勉強をしっかりやる時代です。

細かな%については私の理解では分かりませんが
私は80才になってみて気付いた事は、
かつての第2次世界大戦の無謀さを身を持って
知っているのは私の世代までだと認識しました。
私は、父が召集兵として33才の時とられ、
昭和20年6月にフィリピンで戦病死
(という事になっているが、野垂れ死にだと思う)
という事で私の一家の全員が
人生を狂わせられてしまいました。

私は、父の仇討ち(時代劇調ですが)しようと思い、
誰が父を殺す羽目に持って行ったか
歴史の本を探しましたが、
私の店は、書店ですけど、昭和の初めの記述は
ほとんどありません。

よくもあんなに広げて、
生きた人間に銃はおろか食べ物も何も与えず
あちこちへ送りこんだものだと思い、
誰が中心になって決定したのか
探しましたが、つかめませんでした。
ふとした事で、「東条英機が泣いた」という
毎日新聞社発行の本を見つけ
目下読んでいる所です。
大体は分かって来ましたが、結論は次回にまわします。

総理大臣は目下の日本のトップです。
私心を捨てて日本国の素晴らしい舵取りを
お願いします。
身体ばかりでなく頭も使って下さい。
そして、身体を痛めるような事になっても
くいのない覚悟で、広く高い所に立って
ご判断をよろしくお願い申し上げます。





イセザキ書房TV③ できました!






「イセザキ書房通信」 Vol,13 できました!
店頭レジにございますので、
ご自由にお持ち帰りくださいませ。
(Vol,00から13までそろえてあるものも
ご用意しております)















≪ 8月の休業日のおしらせ ≫
8月14日(水)・15日(木)は
お休みさせていただきます。
よろしくお願い致します。


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2013年6月22日土曜日

教えて下さい、お分かりの方。

実家の弟に電話をした。
「確か、父に命日は6月だと思うが、何日か。
仏壇のおいわいさんの裏を見て教えて。」
弟の返事は「昭和20年6月8日、フィリピンにて戦病死
と書いてある。」と云った。

何が戦病死だ。
木更津から佐世保まで汽車で移動した時にも
食べ物も飲み水ひとつなかったではないか。

父は神戸の義姉に電話を打った。
「神戸駅に00時00分に着く。5分停車する。
何でもいいから食べ物を持ってきてほしい。」と。
電報を受け取った叔母夫婦は、すぐに事情をよみとって
残ったご飯を全部おにぎりにして、
おかずもあるだけの物を全部詰め込んで、
急いで届けた。
デッキの所で、父上は手を振って待っていたのですね。
そして、葉書を一枚渡した。
「これだして下さい。」
神戸の叔母は葉書を読んだ。
「熱海の温泉に入った。
お湯は沢山あって、気持ち良かったが、
食べる物は何もなかった。
今度帰ったら、日出子と5人の子供を連れて
熱海の温泉に行こうと決めた。」という一節があった。
父上、その日を母も私達妹弟も待っていました。

軍隊はドンドン召集して集め、
唯、南の島へドンドン送った。戦具もなし。
食べ物も飲み物もなし。
ミミズでも小さな虫でも何でも食べたそうですね。
一体、この指揮をとったのはどこの誰だ?
私は命あるかぎり探し出そうと決心した。
でも、その指揮官の上にいたのは誰か?
それが難しい、もう生きていないだろう。
くやしい。

日本の国力で、大東亜共和圏等と云って
出来ると思っていたのだろうか。
デビ夫人は、この言葉をスカルノ大統領から
聞いたと随分昔の雑誌に書いていた。
日本の野心は、アジアの中にも
拡がっていたものと思う。

もう時代は一世紀も過ぎ、
地球は大きく変わっているが、
日本の企業は、アジアの至る所に工場を
作り、店舗を作り続けている。

総理殿。
憲法は変えるのですか?
軍隊を作り、、徴兵制度を作るのですか?
そういうものを作ると、必ずそこに総理として
力のおえない権力が生まれます。
私はこれが怖いのです。
人間はみんな貪欲の固まりだから
どこへ行っても権力を持ちたがる。
これが人間だという事を忘れないで下さい。
議員数の一増五減はやっと出来そうですが、
一体、何ヶ月かかっているのですか?
私は、議員数も半分位に減らすべきだと思います。
何もしていない人もいっぱいいるように見えます。
しかし、これの出来る総理は
今の日本にいるでしょうか。

静かにじっと眺めていると
少しずつ、少しずつ、国民から巻き上げるものが
増えています。
金持ちには何でもないかも分かりませんが、
世の中金持ちは、極く一握り。
普通の人間が、努力を重ねながら
普通に生きてゆける国にして下さい。

そして、日本国内の道徳の乱れ方、
生き方の浅ましさは、説明できない程あります。
「商店街では、バッグは道路側でなく、
店側に持つように」
ひったくりに会うからです。
銀行のキャッシュを出そうとすると画面に必ず
「この引き出金しは間違いないか」
という文章が必ず出て来ます。
キャッシュを目指して堂々と人の金を
巻き上げる術です。
私の店では、一度こんな事がありました。
電話があって、「図書カードを10万円分買いたいので
準備しておいてくれ。」
「10万円はありませんが、7万円ならあります。」と答えたら
「じゃあ7万円でいいから準備しておいてほしい。」
電話があって何分もしないうちに
30代前半の普通の男が表われ
「さっき電話した図書カードを買いに来た。」と云って
銀行名入りの封筒をカウンターの上に置き、
私共の店員は、7万円の図書カードを同じように
カウンターに置きました。
置くや否やすぐとって店を出た。
そして、銀行名の入った封筒を開けてみると
金は一枚も入ってない。
すぐに追っかけたが、車で逃げてしまった。
警察へ電話したが、一寸の差でその図書カードは
換金されて人物は行方不明。
まんまと容易く7万円とられました。
本の万引きもありますが、
7万円も売価になる程というのは、至難の業です。

こういう事は、学校教育云々の問題でなく、
強いて云えば親の育て方にも起因すると思います。
国家国民のことは  爪の垢程も持ち合わせていない若者や
そして、中年も含めて日本には多すぎます。

ところで、アベノミクスはどうなっているんですか
株が上がり下がりしただけで
儲けた人もいるかも分かりません。
しかし、私には無関係です。
私は、商人ですから利益を出さねばなりません。
アベノミクスを始めてから少しもよい事はありません。
2%のインフレとか云いますが、
現在60才以下の方はインフレの怖さを知らないのです。

インフレの怖さ、戦争の恐ろしさを知っている
最低年令が私の年代だと思います。
総理もお若いから体験はないと思います。
2%でピチッと止まるインフレなんてあるんでしょうか?
その辺が私には今ひとつ分かりません。
聞きたい人はみんな死んでしまい、
誰か分かる方、教えて下さい。






 『イセザキ書房TV②』
毎月配信中です。ぜひ、ご覧下さい。
タイトル「イセザキ書房TV②2013/06/05」を
クリックするとYouTube内の当店のページへ
移動する事ができ、今までのすべての動画を
ご覧いただけます。
そちらもよろしくお願い致します。




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2013年5月25日土曜日

父上様と私 ~ No,2 ~


父上は、30才も過ぎた自分のところまで
召集が来るとは考えていなかったのね。
九州の母の姉の息子は、特攻隊で
死んでゆきました。
世相は、「日本は戦争に絶対に勝てる」と
未だ思っていたんですね。
大本営発表は、本当の事を発表しなかったから。

でも現実は、違っていました。
学生から中年の男性まで、もう片っ端から
戦争の場へ送りだしたのですね。
武器も持たさず、飲み物・食べ物も与えず。
父上が津田の駅頭で挨拶した時、
他の4人もみんな妻子のある人でした。
あぁ、あの挨拶。
父上最高ですよ。
素晴らしい挨拶でした。

私は、それでも小学校3年生だったから、
はっきりと覚えています。
しかし、妹2人、勿論、弟2人は、未だ赤ちゃんと
3才だったんですもの。
覚えているはずもありません。

父上がいなくなってから、弟2人は祖父を
父親代わりに思っていたようです。
祖父が亡くなった時、大学生であった下の弟が
ものすごく激しく泣いたと聞いています。

私は、祖父の時も、祖母の時も
大恩のある人だから、せめて別れには
行きたかったが、亡き夫には
「行く必要はない。」
「行くなら離婚して行け。」と云われました。
亡き夫は、厳しいとかきついというのではなく
情の薄い男でした。
これも私の運命。

私が小学校2年生の時、学芸会に出演した折、
父上はちらっと見に来ましたね。
「吉光さん。あんたのとこの娘、よう出来るというし、
先が楽しみだね。」と
云われて恥ずかしそうにして帰って行ったのを
私は知っていました。

父上様。
私は小学校の時も一番で卒業。
それから、高松高女へ行こうとしたが、
屋島の登おじさんから
「高女は焼けてしまって授業が出来んぞ。
津田女へ行った方がよい。」 という
アドバイスを得て
当時は未だ、大川女学校と呼ばれていた
学校へ入学しました。

合格発表の日。
母が18番という私の受験番号を探していたら
知り合いの教師に会い、
「18番ありますか。」と聞いたら、
「名前は。」「名和智子です。」
「あぁ、名和は一番で合格したから
入学式の日に誓いの書を読むはずです。」
との事。
嬉しいのか何か分からず家に帰り、
「おばあさん。智子は一番で入学していたよ。」
と声を弾ませて告げた。
「当たり前だよ、智子なら。」
と祖母は当然の事のように淡々と答えたらしい。

入学式当日。
誓いの言葉を読んだのが、
私が生まれて初めて、大勢の前で、
自分の声を披露した時であった。

父上が野垂れ死にしているとは未だ知らず
父上が帰って来たら、すぐに話して
「京大へ行きたい。」と頼もうと考えていた。
しかし、その年の夏のある夜。
夜9時過ぎた頃に役場の人が3人来て、
父の戦病死を知らせて来た。
思いがけぬ大仰天。
私は涙も出なかった。
唯、母がよろけるように何時間も泣いて泣いて。
私は母に云った。
「泣いても駄目。しっかりしてよ母さん。」
その泣き叫ぶ母の背中を
神戸から焼け出されて津田に来ていた
母の姉が、何時間も母の背中に
涙を落しながら、母の背中をなでていた。

その光景も昨日の事のように
私は覚えている。
一家の柱を失った名和家の悲痛の戦いが
ここから始まった。

安倍総理にも、
私が、これから書く文章を読んで
欲しいと思う。 
そして、憲法改正を考え直して欲しい。

つづく・・・。





































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2013年5月18日土曜日

父上様と私 ~ No,1 ~

私は、父 名和吉光と日出子の間に
長女として生まれた。
父23才、母22才。若い夫婦の子供だけど
祖父母にとって初孫だったので
とても大事に育てていただけた。
その後、1年半おきに妹・妹・弟・弟と
5人の子供が生まれた。
大きな飯台に周りに、祖母と母、
その降り角を越えて本延、敏延、
その降りを越えて父が真ん中にドンと座り
時々、赤ちゃんに近い敏延を抱き
口に食べ物を持っていきながら、
「うまいの~」と云いながら夕食をとっていた。

祖父は、別膳でおかずも一番良い所をつける。
そして、一合瓶で温めた日本酒を飲みながら、
「智子、飲んでみろ。」と云って、
時々杯を後ろからまわしてくる。
最初はちっとも美味しくないと思っていたが、
何年かするうちに日本酒の味が
分かるようになった。
今でも、私はどんなに暑い日でも
日本酒は熱燗にする。
近頃、もう80年近く前の事を思い、
独りで味わう。

あの暑かった日々の夕食、
9人寄り添って食べた日を思い出す。
私は年を重ねるに従い、思い出の景色が
鮮やかになり、私の一生のうちで
多分一番幸せ時期だったと思う。

一家の権限は、祖父にあったが、
実際は祖母の考え方で家庭はまわっていた。
その頃の父は、5人の子供に取り巻かれて
「子供は何人あってもよい。多いほどよい。」
なんて云いながら、足の裏にのせたり
肩車に
したり、子供を叱ったという事は覚えがない。
母は毎日毎日、風呂場の横で何時間もかかって
洗濯をしていた姿ばかり鮮やか。

母の実家は、商人だったので
充分な女の仕事や稽古もせず結婚したため、
何かにつけて出来が悪いと祖母に叱られていた。
私は、母が叱られるのが一番悲しかった。
私を叱って欲しいと何度思った事か。

そのうち、神戸の母の姉の家へ
縫い物や家事の練習のため、1ヶ月位行って
来たように思う。
私もこの神戸の叔母から、花、茶、習字、
時には琴も教えてもらった。
士族の家に養女にやられた叔母も、
若い時には相当仕込まれたらしい。

以来、私や妹、弟の着る物は母の手によって
作られた。母は、洋裁学校へも通っていた。
祖母はケチンボだけど、習い事にやるのは
とても積極的だった。
私にも琴を習えといって積極的に協力してくれた。

風通しの良い玄関で、隣のお兄さんと父が
話していた。
「お前、馬鹿な事を云うんじゃない。
靖国で会おうなんて、そんな事云って特攻に
行ってはいけない。
お前のうちはもう兄貴2人戦死しているんだぞ。
両親の事はどうするんだ。
飛行機はいいけど、突撃隊で死んだりするなよ。
生きて帰って来いよ。」

父の言葉が何年もしないうちに
我が身に降りかかろうとは誰も思わなかった。
「靖国で会おう、そんな事云ってどうするんだ。」
それは、父上様、貴方へのメッセージとなって
しまいました。

つづく・・・。




                           
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2013年5月11日土曜日

憲法をテーマにしたら、又、総理交替です

私達、庶民の知る情報は、テレビ・新聞・雑誌等が
大部分で、直接の真実の形は100%は分かっていない。
私も新聞・雑誌と読み、テレビをチラチラ観ながら
時の移り変わりを感じ取っているだけです。

それにしても、総理はなかなか頑張っておられるように
見受けられる。成果の程は別として、
努力は彼なりにやっているのではないだろうか
と思っているけれど、北方領土にしろ、
あちこちに出かけられている姿は見えるが、
結果は分からない。

80年間も日本という国のお世話になって来たので
大体色々な時代を一通り味わった。
私は商人ですから、のんびりとする時間は
全くありません。
実家も遠く(香川県)60年近くの結婚生活の間に
数えてみると8回位飛行機で行き、一泊して帰ってくる
という形ばかりだった。

そんな事はどうでもよい事。
安倍総理は、人気があると思っているようだけれど
自信も大分出てきたけれど、なぜ、今この時期に
憲法をテーマにしたのでしょう。
難しい問題を上手くやれると思っているのでしょうか。

今、憲法を出して来た事で、私はもう半分がっかりした。
憲法ですよ!憲法と云ってもみんなが分かっている事は
そんなに多くの事ではありません。
私は、憲法を出して来られた事で、安倍さんも自分で
運を捨てるような事になるかも分からないと思っている。
アメリカに押しつけられた憲法を
日本人がもう一度作り直すべきだと思っていらっしゃる
ようですが。
事は一大事。
法律の大本の憲法を改正するという事は、
日本が、又、大きく変化すると思います。

確かに近隣諸国から、問題は投げかけられては
いるけれど、安倍さん達の考えている憲法の部分を
直したら、日本は全く変化します。

私は第2次世界大戦で、
召集兵として引っ張って行かれた父を亡くしました。
これが、私の人生観の大部分を占めています。
食物も何も与えず、兵隊だけ送り込んで
どうなるのでしょう?
太平洋中いっぱいに日本兵の遺骨が
残っているでしょう。
充分に往生も出来ず。

私は、靖国神社から戦犯の霊をはずして欲しい
のです。
日本国の為だけに殺された人達のものにして
欲しいです。

さて、憲法をテーマにあげて、選挙に勝てると
思っているのでしょうか?
又、一年で総理が変わる。
世界中の笑い者。
いいかげんにして下さい。




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2013年4月27日土曜日

靖国神社をとやかく云わせないために

今は、前政府に比べれば安泰しているように思えて
国民はみんなほっとしていると思います。

私は、消費税の問題がひっかかります。
税率を動かす度に、レジスターの操作を変えねばならず
そして、その商品が何%の消費税で入荷しているのかを
確認しなければなりません。
3%から5%になった時にも、販売も仕入れも
何かどこかでミスが起きます。
政治家の皆様は“商い”などほとんど知らない方ばかり
ですからこの悩みは分かって頂きにくいと思います。
株は上がっても、又、いつ下がるか分からないし、
素人には先が読めません。
円の問題も同様です。

それらはさておき、何かの問題が起きた時必ず出てくるのが、
閣僚が靖国神社に参ったという事です。
私は、昭和8年生まれですから、
大臣の皆様は私よりずっと若いです。

私が高校3年生の時、ロサンゼルスで吉田総理が
長い長い文章で、日本が独立国家になれた事を
宣言しました。それでも、マッカーサーという
天皇と並べられる大物の存在がありましたから
何もかも自由にはなりませんでした。
又、この戦争を始めたという事で、
昭和天皇に対してよく思っていなかった
大人が沢山いた事を、私は子供心に知っていました。
ところが、昭和天皇が日本中の隅々まで
御廻りになられた事で、天皇を直接
目の当たりにした国民は、自然に頭が下がり、
天皇に対するくすぶった気分が
きれいに一掃されました。

私が母から聞いた話ですが、
天皇陛下が台に立たれると、自然に頭が下がり
天皇は立派だ、大切だと人民の心持ちが
一変したそうです。
マッカーサーの指示か、吉田総理の考えか
分からないけれど、昭和天皇が全国津々浦々
足をのばされ国民と直接お会いした事は
日本国の平和を維持する上で大きな成果があったと
70才過ぎた私は考えています。

閣僚とか政府の人間が靖国神社へ参ったというだけで
問題にしてしまいます。

私が未だ小学生の頃、近所の若いお兄さん達が
毎日のように出征して行きました。
挨拶に来ると、うちの大人との話の中で
「靖国で会おう。」「同僚と話します。」と云って
帰りのガソリンのない特攻の飛行機で
喜んで死んでゆきました。

その時の言葉が、必ず
「靖国で会える」「靖国で会おうよ」という
フレーズであった事を私は70年経っても
しっかり覚えています。
彼らは、自分たちの行動が国を助け、
国民が幸福になるんだと思っていたんです。
だから、命は惜しくない。
先ず国家の為に、そして靖国で、
又、同僚に会えるんだと思って
みんな出征していきました。

こういう人達が、神として靖国神社に祭られているのを
政府の閣僚が参って何が問題なんでしょう。
問題は、戦争を起こした人達。
その中心になって戦争を指揮してきた人達
(特定の名前は書かないが) は確実に戦犯です。
靖国神社は、なぜこういう人達までお祭りするのか。
深い理由があるようですが、
私如き人間には理解できません。

私も父を召集兵として、32才で国へ差し出し
5人の子供、老両親、そして最愛の妻を残して
ついに帰って来ませんでした。
悲劇をいっぱい抱えた人達も祭られていますが
私は、父の仇を打とうと、色々な本を読みましたが
終に分かりません。
でも戦争を企て、大東亜共和圏などと、
嘯いていた人達は、私の父の敵だと
今でも、私は思っています。

もう今更、仕分けはできないかも分からないけれど
A・B・C級戦犯とされた人達の霊を
靖国神社からおろして下さい。
戦を仕事とする 軍人が、国家を牛耳れば
必ず戦争になります。
この人達の霊は、他の場所で遺族が弔ってください。
そして、靖国神社は真白な心の勇士の霊だけに
して下さい。
そうなれば、近隣国も文句は云えないと思います。
99%の善良な若い日本人の魂を、きちんと弔って下さい。
そして、重ねて書きます。
戦犯の霊は全部、はずして下さい。
神社の何か規律があるようですが、
靖国神社だけは別格です。
ぜひぜひ、お願いいたします。




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2013年2月9日土曜日

国家に殺された私の父

電灯をおろして父に手紙を書く。
心配するなと文したためる。

父は、私が小学校3年、妹1年生
妹幼稚園、弟2才、弟0才の時に
召集兵として出征した。33才。

未だ内地にいた時に、
近くの旅館気付でハガキを出した。
妹は、毎日のように書いていたと思う。
それだけが父との繋がりだと思うと
書かずにいられなかったのだと思う。

コピーのコピーで分かりにくいが、
私には、父の心情が胸を打つ
ハガキである。沢山のハガキの中から
一枚とりあげたけど、
父は生きて再度我が家に帰れる事を
最後まで信じていたと思う。

























家族の事、みんなの事を夫々書き、
父の家族への思いは
もう70年以上も経った今、これを読むと 
私は、涙が出て止まらない。
召集兵は沢山、戦死・戦病死・
野垂れ死にした。
食べ物も飲み物も兵器も、
何も持たさずにフィリピンにまで
送り込まれて、ほとんどの人が死んだ。

何という無謀極まりない戦い方を
命じた人は誰だ!
事の成り行きとは云え、
日清・日露に勝った勢いで
大東亜共和圏とか云って、アジアを
全部植民地化しようとしたのか?
それとも、石油等原材料欲しさに
手を伸ばしたのか?
それにしても、外交下駄丸出し。
又、欧米のすべての面で
進んでいる事を充分研究していなかった。

今から、云っても仕方がないが、
靖国神社は、死ぬ事を承知で帰りの
油のない飛行機に乗った、
うら若き青年達の心の拠り所であったのを
私は子供ながらに知っていた。
その人達を裏切った人間を一緒に
靖国神社に祭るのは
私は納得できない!

東京裁判を基準にして
戦争を始めた人・指揮した人の霊は
すべて靖国神社からはずして欲しい。
さもなくば、本心で死んでいった人が
かわいそうです。

私は、泣いても泣いても事はおさまりません。





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2013年1月26日土曜日

苦楽はなへる縄のごとし

私が生まれたのは、日支事変の始まった直後。
そして、小学校に入学したら国民学校という
呼び名に変わった。そして、国民学校3年生の時、
太平洋戦争が始まった。
勝った、勝ったと旗行列・提灯行列が行われる。
日本は強いんだと思ったのも束の間、
大本営発表とは全く異なる事態になっていた。

そして、昭和20年8月15日敗戦。
それまでにも、東京大空襲とか日本全国の都市は
ほとんど毎日空襲に見舞われ、
防空壕というものを各戸が作り、
空襲警報が鳴ったらそこへ入って、
ハラハラドキドキしていた。
家の前に、水をいっぱい入れた水槽を常備したり、
考えても考えても、よくぞあんな事に
必死になっていたものだと思う。

知らなかったんです。
連合国真の力を。アメリカの力を。
そして、完膚無きまでにやられて、やっと白旗を
上げた。
私は今でも、誰がこんな計画を立て戦争に
かき立てたのか、歴史の本を読んでも
しっかりとは分からない。
すれば、東京裁判を是とするしかない。
その時の戦犯は全員、靖国神社から
はずして欲しい。

私は子供ながら、若い男の立派な連中が
「戦死は怖くない。靖国で会えるよ。」と云って、
出征していった人間を沢山知っている。
その靖国に日本を代表する人は参拝出来ない。
戦犯の霊を下ろしてしまって、国の為に準じた
魂だけの靖国神社にして欲しい。

次に、アベノミクスとかしゃれた名前をつけて
景気をよくしようとしているが、
もう、地球は国別ではなく、
一つの大きな人間の
生きる器になってしまっている。

そして、生活原材料(戦争の時にも使う)を
求めて 地球の果てまで地球人は、全員手を
伸ばしている。
それを取り合いする事で、又、ゴタゴタが起き
戦争かと、ハッとする事が度々ある。

消費税(ドジョウ総理の唯一行った仕事)が
アップする。3%から5%になった時も
非常にゴタゴタした。
又、それが2度にわたって行われるのかと思うと
商人の気持ちもくんで欲しい。

総理になるような方は、
小売業など経験がないから理解しにくいと思うが、
本当に商売がやりにくくなる。
景気はよくはならないと、私は思っている。
1050円で買えたものが、
1080円 → 1100円 になれば、
私ならば買い控えるようになると思う。
ニュースを聞いたり、日経新聞を読んだりしていると
何か裏があるようで、信じられないものを
感じてしまう。

それはさておき、
日本中が空襲で焼け野原になった時、
私達(私は未だ大人になり切ってはいないが)は、
心も体も、必死で、頑張って、精一杯使った。
そして、早く独立して<東洋に日本あり>とする事に
全員が頑張った。

しかし、現状はどうでしょう?
仕事がないというのを理由に、
遊んで暮らして、国からお金をもらう人の多いこと。
仕事はない事はありません。
店頭広告もチラチラ見えている。
楽して稼ごうとしても、それは無理。
精神も肉体もしっかり使って、
働こうと思えば仕事はあります。

総じて、昭和20年代・30年代の頃の日本人とは
心情が総変わりしている。
これでは、日本の国に太陽は昇らない。

私は、ずーっと観てきて、体験して来て、
日本人の精神力が弱くなっている事を
日々感ずる。
ガッツがあるのは、老人ばかり。
若い世代を背負う人達よ。
日本を佳い国にすべく、
努力を惜しまず頑張りましょう。
お願いします。






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2012年12月15日土曜日

戦病死ではなく野垂れ死に

もう70年以上も前のこと。
太平洋戦争のことはほとんどの人が知らない。
又、歴史の本にもあまり詳しい事は出ていない。
戦争など全く無縁の人が大部分だろう。
私一人がどんなに怒り狂っても耳をかす人も
少ないだろう。

しかし、わたしは年月を追う毎に
私を頭に9才、7才、4才、2才、0才の子供、
65才以上の老父母と31才の妻を残して
召集兵として引っ張り出され、消耗品扱いにされた
父(吉光)の事は忘れようにも忘れられない。

どんなに楽しいこと、どんなに嬉しいことがあっても
父はこんな経験もせずに、苦しみ抜いて
誰にもみとられず、死んで行ったと思うと
この仇は、どうしても討たねばならない。
しかし、仇を討つにも誰がどこにいるか分からない。

結局、この戦争を始めた人、
そして、負け戦になっても、尚続行し、
兵士を人間として扱わず、物扱いにして
殺してしまった人。

東京裁判が正しかったのかどうか、
私には分からないけれど、戦争犯罪人と考えぜるを得ない。
そして、その人達も靖国神社に神として祀られている。
これも、国家のために尊い命を捧げた人として
考えるべきなのか。

冗談じゃない!
戦没者の6割強は、
餓死と飢え死に、野垂れ死にであったという事は
本にも書かれている。

私の父は、フィリピンルソン島の負け戦の時に
戦病死として昭和20年6月になっている。
野垂れ死にした後、2カ月で戦争は終わったのに。
そして、白木の箱が返って来たが、
開けてみると、細長い木札に名和吉光の霊として
書かれたものがポロンと一枚入っていただけ。
開けてみて、母、祖父母、私とすぐ下の妹は
オンオン泣いた。
下の3人は何かよく分からなかったらしい。
父と0才で別れた下の弟は、
「又、あの箱開けてみんなで泣こうよ。」といって
白木の箱を下げて来たりした。

木更津から南方へ向かう国鉄の汽車に
乗せられた時も、食べる物一切なし。
身を守る道具も何もなし。
父は、神戸を通る事を知って、
神戸の母の妹の家へ電報を打って
[ ナンデモイイカラ タベモノヲ トドケテクダサイ ]
と頼んだ。
神戸のおば夫婦は、おにぎりを作って、ある物全部
弁当箱に詰めて持って行ってくれた。

よくも生身の兵隊を移動させるのに
食べ物を何も与えないでやったものだと思う。
上の上の指示だと思うが、その又上の人が
私の仇打ちの相手だと思う。
そういう連中も皆、靖国神社に祀られている。
はずして下さい!戦犯の霊は!
純粋に国家のために犠牲になった
人間の魂だけにして下さい。

一旦、捧げたものは、おろせないという
神社の意見らしいが、私は、靖国神社へ行って、
その人達の位牌をぶち壊してやりたい。
年を重ねるにつれ、思いは強くなる。
私は戦勝国が、為政者の靖国参りを云々いうのは
当たり前だと思う。

もう、私の力では父の仇討ちもおぼつかない。
「靖国で会おうよ。」と本当に純粋な気持ちで
散っていった若者も大勢知っている。
そういう人達は、本当に神様として手を合わせたい。

しかし、戦争を指導した人物の霊は、靖国神社から
ぜひはずして下さい。
手を合わせる相手ではない人がいると思うと
靖国神社が穢れます。
純粋に国家のために犠牲になった人達には
私は、いつもいつも感謝の念で両手を合わせて
拝んでいる。
戦争犯罪者の霊は、靖国神社からはずして下さい。
お願いします。
ぜひ、お願いします。






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2012年12月8日土曜日

召集兵の娘の決意

お父さん、今、どこから私を見ておられますか?
私は79才、お父さんの2倍以上の時間を
生きてまいりました。

あの日、昭和18年10月20日、
学校から帰って来たら、母が
「父ちゃんに召集令が来たんで。」
と今にも泣きそうな顔で、
「11月5日に佐世保軍へ入隊するんよ。」
と云いました。
佐世保。海軍。そうか、私の父の職業は
漁業だから海軍にやられるのか、
と私は思いました。
国民学校4年生、9才の私には
それ以上何も分かりませんでした。

親戚・縁者が、一人、二人と集まって来て
「吉光さん召集が来たんな。」
と口々に云っているのが私の耳に響く度に
何か大変な事が起きる前触れのような気がして
心細くなって恐ろしくて たまりませんでした。

妹7才と4才、弟2才と0歳だったんだ。
お父さんは33才、母は31才、
そして、祖父は64才、祖母は62才。
9人家族でとても楽しかった。
経済的にも何不自由なく、
5人兄弟、けんかしながら大きくなっていきました。

お父さんは、出征するまで十日間余りの間に
自分が居なくなっても、祖父達が困らないようにと
次々と仕事を片付けていきましたね。
それでも一日も欠かさず漁場は見てまわり、
出征前日11月4日の朝もヨドマル(蟹甲湾
一番の漁場)へ船を出し、ヨドマルの人達が
「名和の吉光さん召集令が来たと云うのに
今朝もヨドマルへ気とったけど、
あれ、うそだったのかいな。」
と口々に囁いていたそうです。
お父さんは、祖父への配慮もさる事ながら、
生まれ育ったこの海と、
物心ついてからずーっと過ごしてきた
我が大切な職場を目にやきつけて
おきたかったんですね。

そして、蟹甲湾を囲む雨滝山や火山、鷹島を
しっかり心の中に入れておきたかったんですね。
これを思うとお父さんの心情、痛い程分かって
とても悲しい。

その二・三日前、お父さん覚えていらっしゃいますか。
夕方、もう薄暗くなり始めた波打ち際近くの砂浜で
打ち寄せる波の音だけの静かな浜辺で
私と二人だけで何も云わず並んで座っていた
あの日の事を。

お父さんは何も云わない。
ただ、黙って海を見ているばかり。
私も何と云っていいのか言葉が出て来ない。
どれ程の時間が経ったでしょうか。

でもね、お父さん、お父さんは何も云わなかったけど
私にはお父さんの心の中、ビンビン伝わって
来ましたよ。

「智子よ。お前は一番大きいんだから
妹や弟の面倒を見てやってくれよ。
母ちゃんの云う事よく聞いて、
手助けしてあげてくれよ。
お前は、うんと勉強して必ず一流大学へ行けよ。
おじいさん、おばあさんは年寄りだから
大事にしてあげてくれよな。」
と聞こえて来ましたよ。

あぁ、その時、私は今でも忘れられない事が
あります。
「お父さんは、再びこの津田の海で泳ぐ事が
出来るだろうか?いや、津田の海でなくても
世界中のどこの海でもいいけれど、
再び海で泳ぐ事が出来るのだろうか?」

と,なぜか分からないけれど、私の心の中を
よぎった。
あの夕暮れの浜辺の父娘の光景は
私の心の中で一生忘れえない
大切な一枚の絵になりました。

十日間は瞬く間に過ぎ、終に出征の日が
やって来ました。
お父さんがこの家からいなくなる、
どうなるのだろうかと、とても不安いっぱいだった。
お父さんは、5人の子供の父であり、祖父母の一人息子であり
母の大切な夫だったんですもの。

でも、必ず元気で復員してくるから、それまでの
辛抱だと私は自分に云い聞かせました。
私は、お父さんのうごく方ばかり追っていました。
屋島のおじさん(母の弟)と話していたこと。
「兄さん、とにかく生きて帰って来て下さいよ。
生きて帰る事ばかり考えて下さいよ。
死んだらいかんで。
捕虜になってもいいから生きて帰って下さいよ。」
山田のおじさん(母の姉の夫) との話。
「吉光さん、死んだらいかんで。
生きて帰らないかんで。
絶対生きて帰って来いよ。
どんな事してでも生きて帰るんだよ。」

お父さんは
「この5人の子供をおいて死ねるもんですか。
必ず生きて帰ります。」
と云ったわね。
2人のおじさんとの話で私は恐ろしくて
泣きだしそうになりました。

そして、当日。
名和家の玄関には、近所の大勢の人が
集まって来て、みんな不安そうな様子だったのが
忘れられません。

祖母が玄関の片隅で両手を合わせ、
目をつむって何か必死で祈っていた姿を
思い出します。祖母は、
「私は駅へは行かんよ。ここで見送る。
吉光よ、体に気をつけてやれよ。」
と涙一滴こぼさず笑いながら
父の手を握りしめていた。
あの時の祖母の心の中を思うと
私は、たまらなくつらい、悲しい。

お父さんは、見送りの一人一人に
両手で手を しっかり握りしめ、
「○○さん、あとの事頼むで。」
「○○さん、後みてやってな。」
と何十人の人に云った事か。
私は、お父さんの後ろ髪引かれる思いが
ぐんぐん胸に迫って来ました。
家から駅まで何十人かの人が
日の丸の小旗を手に持って
歩いて送ってくれました。その道中でも
「○○さん、後頼むで。」・・・
と右に左に手を握りながら繰り返しておりました。

0才の弟は、何が起きているのかも分からず、
母の背にもたれたまま。
2才の弟は、父の上着の端を
しっかり握りしめて歩いていました。
妹2人は私と並んで父の後から
歩いて行きました。

駅頭には、一緒に出征する他の4人を含め、
5人で並びました。
みんな、30才を越えた妻子のある男ばかり。
むごい光景です。町長の祝辞と激励に言葉。
そして、万歳三唱。
召集兵を代表して、父の挨拶が始まりました。
お父さん、69年経った今も私の耳には
はっきり聞こえています。

「津田町の皆様、本日は私共召集兵5名の
出征を祝って、かくも盛大なお見送りを頂き、
有難うございました。この我が日本国家難局の折、
日本男子としてその戦列に加えていただける事を
この上もなく誇らしく思っております。
日本男子の本懐であります。
この戦争に勝つまでは、日本人は一丸となって
戦わねばなりません。拳命の働きをする覚悟をして、
本日、元気に出発いたします。
唯、家に残す5人の子供と老父母の事、
皆様に面倒かけると存じますが
何分にもよろしくお願い致します。
(お父さんは妻の事は何も云わなかったわね)
では、元気で行ってまいります。
有難うございました。」

あのやさしい父のどこに、こんな力強い声が
あったのだろうか。
公職についた事もない父が、こんな立派な言葉を
云えたのだろうか。
お父さんとの別れの悲しみ、挨拶の素晴らしさに
聞き惚れたのか、私は涙が止まりませんでした。

雨滝山からの西風にのって父の声は
ビンビンと響きました。津田町中に響き渡りました。
きっと、お父さんが愛してやまない
蟹甲湾の海の上にもきっと届いたと、思います。
海、津田の海も感動して聞いてくれた事でしょう。
これが、吉光の最初にして最後の演説だという事を
海は知っていたかも分かりません。

「まぁ、吉光さんの挨拶上手やったなぁー。」
という声があちらこちらからすすり泣きに混じって
聞こえて来ました。
その時祖母の従兄の八十吉(やそきち)さんが
終わるや否や走って祖母の所へ飛んで行き、
「ナカさん。(祖母の名前)立派な挨拶して
吉光さんは出発したよ。そりゃ立派だったよ。」
と息せき切って伝えてくれたそうです。
祖母は、嬉しかったのか悲しかったのか
八十吉さんにとりすがって大声で泣いたそうです。
あの気丈な女の祖母が。

高徳線に乗る直前、母が小さな声で
父に云ったのを私は聞いた。
「あんたの挨拶よかったと
みんなが褒めてくれとるで。」と。
母の父に対する一生に一番の
褒め言葉だったのではなかったかと
私は今、思っています。

こうして、18年11月5日。
生まれ育った津田を後にして、佐世保へ
出発しましたね。終に再び津田はおろか、
日本の土地を踏む事叶わず、
フィリピン、ルソン島で6月23日に戦病死、
つまり、野たれ死にしてしまいました。
後、2ヶ月弱で戦争は終わったのに。
くやしい、本当にくやしい。

お父さん、息の切れるその前に
母の顔見えましたか?
5人の子供達の一人一人の顔、
見えましたか?
かわいそうなお父さん。
34才で誰一人に看取られるところか
食べ物も水も何もない南の果てで
死んでしまった。
本当にかわいそうなお父さん。

今、私は思いだします。
宮本武蔵が佐々木小次郎を倒した時、
ふと、かなたに風車を持った小さな息子を見つけ、
「あの子が大きくなったら仇打ちされるかな。」
と云った事を。

私も一生かけても死んだ後でも
父を野たれ死にさせた人間に復讐します。
必ず必ず復讐します。
私は、日本人ですもの。
今、私を支えているのは父の復讐という
生き甲斐だけで生きております。

戦争にはヒーローはいない。
あるのは悲劇だけでした。

こんな事を知ってる人間の数も少なくなってしまいました。



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2012年10月13日土曜日

『負けて勝つ』を観て

NHKドラマ『負けて勝つ』が終わった。
私は、仕事の都合で午後9時ピッタリには
観られないので、9時20分位から観ていた。

吉田茂は、昭和40年代に亡くなった方なので
私は、本物を知りすぎている。
ドラマの主役に、お気の毒ながら“一寸違うな”と
感ずる事が幾度もあった。しかし
雰囲気は、ドラマとしてはよく出していたと思うが。

そんな事より、マッカーサー元帥が着任し、
事実上の日本国のトップになった。
東京をはじめ、全国各都市の焼け野原の中から
日本国を独立国にするには どうすればよいか。

直接は誰も分からなかった。
自分が生きるのに精一杯だった。
東京裁判があり、皇室の存在、
天皇陛下はどうなるのか、誰にも分からなかった。
そして、背の高い堂々としたマッカーサーと、
日本人の背の低い天皇陛下が並んで立った写真は、
全国民に大きな衝撃を与えた。

東京裁判も一段落し、とにかく日本人のトップを
誰にするかという事が難しかった。
皇室の人でもピッタリせず選び抜いた揚句、
吉田茂に一応落ち着いた。
しかし総理大臣と云えども、その上に
マッカーサーがドント座っている。
何を決めるのもマッカーサーなしでは進まない。
皇室の問題、憲法の問題、
外交は全てアメリカの 手中にあった。
(外務大臣は不必要)
セリフの中に
「こんな優秀な外交官を相手にするなんて難しい。」と
マッカーサーに云はしめたほど、
吉田茂は、全知全能をかけて日本の独立へ向けての
キツイ、長い坂道を歩み続けた。

元々、この戦争にも反対論者であった吉田茂は、
外国の事を充分理解していた。
だからこそ、反戦論者だった。
昭和天皇とも、マッカーサーに会うチャンスを作り、
昭和天皇の本心の考え方をマッカーサーに
伝える事にも努めた。
日本から皇室をとったらどうなるか、
吉田茂は心得ていた。
一日も早く、独立させるべくあらゆる手段を講じた。
そこに、次郎という男が出てくるのだが、
これが白洲次郎で、吉田茂を陰に陽に助けた。

白洲次郎と云うと、すぐ思い出すのは、
テレビの中でも出て来たあの 長い長い長文の
独立宣言書の事である。
吉田茂は、英文で云うつもりだったが、
白洲次郎に一喝される。
「これから独立して、世界の中で
一人前になるというのに、その宣言を
なぜ英文で書くのか、書き直せ。」と
みんなに命じて急遽、紙と筆を用意して
手分けして日本語に書き直した。
長い長い巻紙の日本の独立宣言の文章は
ものすごい大きいトイレットペーパーか
と云われたりしたらしい。

それはともかく、このテレビは立派なものだと
私は思う。
日本がどのようにして敗戦国になり、
どのようして独立国を勝ち取ったか。
多分日本人の50才以下の人間は
ほとんど知らないと思う。

地球上に沢山国家はあるけれど、
みんな夫々好い国ばかりではなく
苦い苦しい思いをして成り立っている。
日本史も明治維新までは教科書で
習った人が多いと思うが、
肝心の現代史は、 
一寸おろそかになりすぎている。

過去の歴史を知らずして、
将来の展望は立てられない。

更に私が感じた事は、戦後復興させた
政治家は、みんな一流だと感じた。
それに比べて現在の内閣はどういう事でしょう。
何かの週刊誌の表紙に
《 このひどい政治家たち 》 という文章が
ありましたが、まさしくその通りだと
今回の『負けて勝つ』を観てその感を強くした。

心の底から日本の国家の事、国民の事を
考える政治家は、必ず何かを残してくれる。
どうでしょう、現在私は、一庶民ですから
これ以上は書きませんが、
もっと、もっとレベルアップしてほしいと
心から念じます。





吉田茂 像(東京・北の丸公園)











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2012年8月18日土曜日

8月15日は特別な特別な日

今年は、オリンピックがあった為、
8月と云っても戦争の事については
例年より情報が少なかったと思う。
又、一年経つ毎に時間が過ぎてゆくので
67年前の事となると、知らない人が
大部分になってしまった。

私は、生まれた時から日支事変が起こっており
太平洋戦争は、小学校2年生の時にはじまり、
敗戦は小学校6年生の時。
瀬戸内海の穏やかな町に住んでいたけれど
防火用水を各所に準備、空き地に穴を掘り、
空襲警報が鳴ると、その穴ぐらへ
家族全員もぐりこんだりしたので、
忘れざる記憶がいっぱい。

私は、終戦とは云はず、
ずっーと敗戦の日 8月15日と
60年間表現してきた。

何が終戦ですか!
大敗した日を ” 敗戦の日 ” と云わずして
どんな言葉があるでしょう。

去る、8月15日の夜、
NHKが【 終戦 】というタイトルで放送しましたが
私の知らなかった事も沢山あって、
胸を熱くして、涙を流しながら泣きながら
テレビを観た。
私が最近、テレビの前で一歩も動かず
観たのはこれが多分ここ10年間位の間にこれだけ。
たった一度だけだと思う。

兵隊だけを送りこみ、銃も剣もなく、戦争用具は何もなく
更に食物はいっさいなし・
、
何でもいいから、ミミズでもよいから欲しいと思って
隊から動くと、即、銃殺であったらしい。
日本の軍人は、何だったのか。鬼か邪か。
そんな風に死んだ人、
食物がなくて死んだ兵隊の肉をちぎって食べたとか・・・。

大東亜共栄圏とか云って、満州にまで手を伸ばし、
南はニューギニアまで。よく拡げたものだ。

私は、東京裁判はなまぬるいと思う。
まして、その形で死刑にした人間の魂は
靖国神社からはずして欲しい。

「靖国神社で会おうよ」と云って
真剣に出征して行ったうら若き青年がかわいそうだ。
軍部が政治をとったら国は亡ぶ。

現総理にしても、消費税にばかり政治生命を
かけるのではなく、
日本国を守るために本当の命をかけるべきだ。
でなくば、総理大臣なんて価値なし。
命をかけて日本を守る人に
一刻も早く交替してもらいたい。




『日本人なら知っておきたい!太平洋戦争』 学研 ¥680





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2012年8月9日木曜日

私の広島

 広島市へ原爆が投下されたのは、
昭和20年8月6日午前8時15分。
一つの市が、丸ごとなくなってしまい、大勢の人が死んだ。
又、病気になったまま亡くなっていった人もいた。
当時の事を知っている人は、日本国民の中でも
もう、1割くらいかなと思う。
随分、昔の事のように思うけど、
日本の歴史の上では、大変重要な事件であった。

私は、幸いにして四国 に住んでいたので
何の被害も受けてはいない。
しかし、毎年8月の初めになると、
広島・長崎の原爆の日は、必ずやってくる。
そして、ニュースとして扱われる。

なぜ、ここまでくるまで白旗を上げなかったのか?
沢山の犠牲を出し、なぜこんなところまで戦を
進めたのか?腹が立つ。

私は、毎年8月15日は、終戦の日ではなくて
” 敗戦の日 ”
として、私なりに祈りを捧げて来た。68年間。

私には、原爆の被害はなかったが、
その前年、昭和19年8月に広島の駅で
父と永遠の別れをした。

母・祖母・上の妹・下の弟、そして私と5人で
広島へ面会に行った。
電報が来て、準備もそこそこに弁当だけは
しっかり造って5人は列車に乗り込んだ。
それから、米を持って、米は旅館へ。
下の弟は1才。母の背中にずっと背負われていた。

指定された旅館で待っていると、まもなく父がやって来た。
「お父ちゃん」妹がとびついた。
私は、父の顔を見て、笑っていたので安心した。
母も祖母も涙を流す。
下の弟だけがキョトンとして赤ちゃん座りをしていた。

あぁ、あの瞬間のあの光景は、忘れる事が出来ない。
旅館と云っても、食事はほとんどなく 、
持参した弁当を拡げ、父が、おいしそうに食べているのを
私は、じっと見ていた。
ふるさとの味、祖母が懸命に作った巻きずし、
煮魚などなど。

父は、下の弟と別れて1年位経っていただろうか。
「敏延よ。父ちゃんだよ。こっちへ来い。」
と何度云っても、唯、顔を見ているだけで
近寄ろうとしない。無理もない。
別れた時は、生後10カ月。
父だと分かるはずがない。
父が、少しずつ寄ってきて、扇子の先で
「父ちゃんだよ、敏延。」と何度云っても、
唯、じっとしていた。
そして、父の手に持っていた扇子の先に
一寸さわって、父の顔を見て
後ずさりした。

父は抱きたかったのに、下の弟は全く動かない。
そうこうしているうちに、食事も一段落した時、
祖母は、帰りの切符を並んで買わなければならない
と云って席を立った。
大きな蚊帳の中に布団が敷かれ、
私も妹も弟も疲れてしまったのと、
父と会えた安心感で、多分眠ってしまった。
父と母の話声もかすかに聞こえてきたが。
祖母は、夜明け近くに切符を持って帰って来た。
「そんなにかかったの?おばあさん。」
と私が云うと、
「大勢だもの、時間はかかるよ。」
と答えた。
私は、自分が成人してから、
あぁ、あの時祖母は、父と母の2人の時間を
少しでも長くしてやるべく駅で寝たんだと分かった。
祖母は、そんな事は一口も云わなかったけど。

それから、昼すぎまでどうして過ごしたか
書く事は出来ないが。
もうじき何時間。もうじき何時間と思いながら、
私は、父の体のあちこちにさわったり、
ふざけたりした。
時は、刻々と過ぎる。

昼すぎ、身支度を整え、6人は駅へ向かった。
父の乗る列車のホームと、私達の乗るホームは、
線路を挟んで並んでいた。

妹がいち早く父を見つけ、「お父ちゃーん。」 と
大きな声で叫んだ。
聞こえたかどうか分からないけど、
妹は、「お父ちゃんが泣いている。」と云って
オイオイ大声で泣き出した。
見ると父も確かに泣いていた。
私も胸から込み上げてくるものを
おさえる事が出来なかった。
母の眼にも祖母の眼にも涙、涙。
背中の弟だけは、眼をくるくるさせて
不思議そうな顔をしていた。

そして、この瞬間が、父との永遠の別れになった。

父はその後、南の島フィリピンのルソン島へ送られ、
昭和20年6月23日、戦病死となった知らせが
昭和21年に来た。
何が戦病死だ。きれいごと云うな。野たれ死にやないか。
あるいは、共食いだったかも分からない。
食べ物も何も持たせずに兵隊だけを送りこんで
どうするつもりだったのか?

私は、私の父を殺した人間を探し出して必ず仇を討つ。
79才の今でも未だにそう思っている。
誰なんだ、父を殺したのは。

私のような思いの人間は、日本に沢山いる。
そして、毎日、毎日、無念を晴らす事なく
年老いて死んで行ったんだろう。
歴史の上では、広島・長崎の原爆被害とされているが、
そんな単純なものではない。
よくもアメリカ相手に戦争をしたもんだ。
今頃、地獄の200℃の中で苦しんでいろ。
日本の都市のほとんどが空襲を受け、
東京も焼け野原になったあの3月の日。

戦争を止めさせて欲しかった。
出来なかったのだろうか。
いや、そんな事はない!
運命として片づけるには、あまりにも悲しすぎる。

私は、あの世にまでこの恨みを持って行く。
お父さん、5人の子供はみんな立派に成人して
夫々社会に貢献しています。






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2012年6月23日土曜日

神戸駅 19時30分

 神戸に住んでいた千賀恒一、智恵子夫妻の家へ
電報が届いた。
____________________

ホンジツ ゴゴ七ジ三〇プンニ
コウベエキ ツーカシマス
スミマセンガ ナンデモヨイカラ
タベモノモッテキテイタダケマセンカ
ナワ ヨシミツ
____________________

名和吉光とは、智恵子の妹 日出子の夫である。
33才で召集兵にとられ、佐世保へ入隊したはずだが
19時30分の列車は下りである。
智恵子も恒一も、よく分からないけれど
おなかをすかしているらしい吉光の事がピンと来た。

夕飯用のご飯を全部梅干を入れておにぎりにした。
食事用に作ってあったおかずも全部弁当箱に詰め、
魔法瓶にみそ汁を入れ、
二人でさげて神戸駅に急いだ。
時間がない、間に合うかどうか。

ホームはすぐ分かった。
ギリギリについた所へ、窓を全部黒い幕で
見えなくしてある列車が、入って来た。
5両と6両の間に、吉光の手を振っている姿が
智恵子の目に入った。
「姉さんすんません。
木更津を出てから何も食べてなくて
ペコペコなんです。有難うございました。
この恩は生きて帰っていお返しします。
このハガキを投函して下さい。
こうしないと書けないので。」
と云って、一枚のハガキが吉光の手から
智恵子の手に渡された。
妻 日出子宛てのハガキであった。

停車の5分はすぐに過ぎて
汽車は、ホームから動き出した。
「ありがとうござんした。姉さん、兄さーん。」
という声が聞こえなくなっても
吉光が手を振っているのだけはうっすら分った。

吉光は、周囲の者に少し分け与えながら
涙をこぼした。
電話をかける事も出来ない。電報しかなかった。

投函する前に、智恵子はハガキを読んだ。

「神戸を通る事が分かったので、千賀へ電報を打って
食べ物を神戸駅まで 持ってきてもらった。
礼を云っておいてくれ。
熱海で温泉に入った。湯はたっぷりあって
とても気持ちが良かった。
帰ったら、日出子と子供5人を連れて
熱海の温泉に行こうと決めた。
何も食べ物がないんだ。腹がすいてどうにもならん・
年老いた両親と仲良くしてくれ。
子供達には、しっかり勉強させてやってくれ。
大学に行かせてやってくれ。
千賀の姉さんのおかげで、やっと腹の虫がおさまった。」

と書かれていた。
智恵子は、涙を流しながらこのハガキを
駅の中のポストへ 投函した。

恒一が云った。
「木更津からどこへ行くのか分からないが、
食べ物もないなんて、ヒドイゾー。
お上は、こんな事ご存知なんだろうか?
智恵子、この戦争は負けるぞ。
お前と美鈴(娘)は津田へでも疎開した方がいい。
神戸も空襲を受けるぞ。」
と云いながら、漬物とお茶で夕食を済ませた。

吉光は、どこへやられるのか、送られるのか全く知らない。
窓は、全部黒いカーテンがおりて外は何も見えない。
唯、陽の具合で西へ向かっている事だけは確かだ。
どこへ行くのだろうか?すべて軍事機密。

0歳から10歳までの5人の子供、60才を過ぎた老夫母、
そして、かけがえのない妻、日出子を残して
召集令に応じて自宅を出たのは、昭和18年11月。
吉光は、出征するその日の朝早く、
沖の魚の具合を 見に船を出した、一人で。

魚の具合よりも、生まれて33年毎日見て来たこの蟹甲湾。
そして、職場であった 仕事で毎日見つずけた雨瀧山と火山。
この姿を自分の目の中に焼き付け、
身体の中にこの潮風をたっぷりと入れておきたかったのだ。
自分は生きて帰る、必ず、必ず、と願いつつ
出征して行ったが、家を出たきり愛する家族のもとへは
終に帰れなかった。
フィリピンルソン島で、戦病死という報告があった。
戦病死、それは野たれ死に。

役場の担当者が、
「気の毒な家の人が戦死した。私は、よう伝えられない。」
と云って、夜になるまでもめていた。
そして、日出子の懇意にしている人が、
「私が行って、名和さんに話します。」
と云って、9時過ぎてやって来た。

思いもかけない訃報。
妻 日出子は、転げるように何時間も泣きに泣いた。
その時、すでに疎開して津田に来ていた姉 智恵子が
何時間も日出子の背中をなでながら泣いていた。

吉光にとって、母 ナカは一滴の涙もこぼさず
仏壇におひかりさんをあげ、
「ヨシミツ、ヨシミツ」と名前を呼び 続けていた。
父 延太郎は、腕組みをしたまま、吉光が帰って来たら
一緒に飲むんだと一流の銘酒を2本置いてあったのを
坪の内の庭の石にぶちつけて割ってしまった。
長女 智子は、母が死ぬかと思った。泣きすぎて。
父と最後に別れた時、「智子、しっかり勉強しろよ。」
と云われた言葉が聞こえて来た。

戦争は、悲劇以外の何者でもない。
智子は、このカタキはとってやると心に誓った。







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