2009年5月16日土曜日

戦はまだまだ続く

気がつけば私は55年間”本”を売る商売の中で生きてきた。最初の2年間は英語しか通じないアメリカンネービーがお客様だった。その後1956年にイセザキ書房を設立して本格的に書店として横浜伊勢佐木町で開店した。一月に開業しその年の6月に長男誕生。27才の夫で22才の妻は何も分からぬまま周囲の人達に教えていただきながらのスタートだった。経験なし。資金ギリギリ。
あったのは夢とやる気だけだった。
周囲は40代、50代のバリバリの商売人達の中でとても危なげに見えていたらしい。55年間は短くなかった。よく続けられたと思う。きびしい夫に心身共にたたかれながら鍛えられた。苦しみ、もがきつつ手にした船舶市場は私は神からの贈り物だったと思っている。南氷洋の捕鯨船、北洋の鮭鱒漁業の出港時には6台の2t車がフル活動して本を運んだ。当時の取引問屋の部長さんがこんな小さな店でどうしてあの大きい売上が出るのかと不思議がった。


出版界も好況だった頃とは云え平凡社の国民百科(1セット1万円)更に世界百科(1セット12万円)を船市場で懸命に売った。自社月販でやったけどとりはぐれはほとんどなかった。
お客様の自宅は全国にわたっているので毎日毎日梱包して日通で発送した。(当時は宅配便は無かった)おかげで書店の中では全国第2位の成績で平凡社から表彰を受けた。
もう文字通り無我夢中の毎日であった。夫も私も従業員も。
しかし夫は働き盛りの50才前後頃から体調をくずし64才で亡くなるまで7~8年間は入退院の繰り返しし状態に陥った。日航機が御巣鷹山で事故を起した日、取引先の三光汽船がつぶれた。売掛金の交渉に三光汽船から部長さんが来店した時、私はそれどころではなく夫の食道ガンの手術を前にして「全部さし上げます」と云ったら「イセザキ書房が一番理解を示してくれた」と云ったが理解も何もない。私は夫の生死をさまよう姿を前になす術はなかったのであった。
苦しかった、本当に辛かった。

私は独りになってから一年間位何をどうしてよいか分からなくなってしまった。そんな時、当時の問屋の横浜支社長さんから「頑張らねばいけません、奥さんやれますよ、しっかりして下さい」と励まされ目が覚めた。
それから私は周囲の景色が変わって見えるようになり5年間位、北海道から九州まで飛行機と新幹線を利用して書店見学を始めました。最後にアメリカへ行き書店のあり方を学ばせられた。「書店が本を並べているだけの空間では満足出来ず、まず店全体の風景を考えるようになりその結果壁面は天井まで本を並べ棚はすべてグリーン、そこへ真っ赤な梯子をつけた。


それから私は手当たりし次第にセミナーに出掛けた。セミナーの受け方もプロ級になり講師の良し悪しも(私にとって)分かるようになった。一つのセミナーで5~6名の講師がいてもたった一人だけでよいから私に何かを学ばせてくれる人を探した。又、講師にもレベルのある事もだんだん分かってきた。36年間夫という先生にしごかれながら私は教育を受けた。「下手な大学に行く位なら俺が教えてやる」と云って歴史をはじめとし人生万般に亙って私は夫の教育を受けて成長した36年間だったと今にして思う。夫の命令通り唯、ワーカーとして働いていた時と異なり考えねばならぬ事、判断しなくてはならぬ事悩まねばならぬ事が沢山出てきてきた。そして世の中の変化も肌で感じられるようになった。
そうして考えはじめると書店という存在は社会の中で大変必要な商売であるけれどその規模は総じて小さい。日本一の書店と云われる店でも他の産業と比較すればまことに小さい。中には経営者としても商人としても立派な人も私の近くにはおられた。夫も私もその方を尊敬していた。

出版業界と一口に云っても出版社 取次(問屋)そして小売店と三種類ある中で小売店はほとんど零細企業。政治や社会を動かすようなパワーは持っていない。
メーカー(版元)→問屋(取次)→小売店(本屋)川下へさがる程、総合的な力は弱い。勿論例外はあるが。そして今、出版不況と云われて久しい。昔から人間に最低必要なものは読み・書き・そろばん、そのすべてが機械にとって代えられた。特にインターネットの普及によって更にその度は強まった。
最近、雑誌と云われる分野の落ち込みが激しい。一つは町の本屋が立ちゆかなくなって閉店し大型書店中心になった事に起因する。更に人件費の高騰により配達という事がやりにくくなった事も原因だ。そして廃刊に追い込まれる雑誌が多くなった。出版社も何とかして売りたいので色々考えていると思う。その一つが付録という存在。付録の魅力で読者を惹きつけようとして「これが本の付録なの?」と思うような物が付いてくるようになった。出版社も色々考えて売り上げにつなげたいから当然かも分からない。
私はもう何年も前からこの付録の事で云いたい事があった。一般の方には理解し難いかと思うけど付録をはさんで、紐でくくって陳列するのだが、この付録づめの作業は大変な労力を要する仕事である。
55年間本屋を黙々とやってきて残り時間も少なくなりかけた頃だけど思い切って申し上げたい。これはメーカーである出版社の作業であると。云ってみればメーカーは半製品のまま出荷しているようなものだと私は考える。一冊づつセットにして完成品にして小売店へ流通させるべきだと思う。かつて幾度も問題になったけど未解決のまま。力の弱い小売店にすべて押しつけられて当然と思っている。

紐の代わりに輪ゴムを改良したような付録つけ用の道具が考えられそれを取次ぎは有料で小売店へ販売している。能率のアップのために・・・と宣伝して。私は申し上げたい。小売店へ売るのではなく版元へ売るべきではないでしょうかと。出版社は大切な商品なら小さな付録も一つ残さず本誌と共に読者の手に渡せるように完成品にするのは当然ではないだろうか。例えば袋に入れるとか、方法は色々あろうが。半世紀前私が若かった頃は付録も文字通り付録だったが現状の実態はひどすぎる。

又、休日だから連休だからと云って週刊誌は合併号として半分期限切れになりそうな雑記事で量だけ多くして出してオシマイ。書店は場所にもよるが休日でも連休でも休める店は少いと思う。又、開店してもそんなに売り上げのとれない場所もある。休日の多すぎる事が原因だから出版社は休日は無視して決まった曜日に出すべきだと私は思う。出版社は大体9時~5時週休二日体勢だと思うけどもうそんな事云ってる場合ではないと思う。休日と云えば車を走らせ地球環境を悪くする事ばかり宣伝していていいのだろうか。次の連休はこの本を読もう、休みが長いので長編小説を読もうというようなPRをした版元があるだろうか?
自分を捨てて社会に貢献しよう
世の中を活性化させよう
というような気風が失せてしまった事を私は嘆かわしく思う。

50年以上ほとんど休みなく12時間労働を続け、たしかに苦しかった。でも私はやっぱり本屋であって良かった。私の店から出た本が世界中の港に送られ日本船舶の乗組員の読者に喜んで読んでいただけるという事を私はこの上もなく誇りに思っている。ソマリヤ沖の海賊の問題でも私は自分の事のように心を痛めている。



島国日本では海運業に支障が起きたら平和な生活は何もできなくなるという事を私達は忘れてはいけない。その第一線で体をはって働いておられる人達の大部分がイセザキ書房から出てゆく本を待っていてくれている。それを思うとそれだけで私は生きている事に感謝したい。戦いはまだまだ続くけれど。

※地図参照
「’09 今がわかる時代がわかる 
世界地図」
SEIBIDO MOOK
正井 泰夫 監修
出版社名 成美堂出版
税込価格 1,680円



「海賊モア船長の遍歴」
中公文庫
多島斗志之/著
出版社名 中央公論新社
税込価格 940円

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