2011年7月19日火曜日

流れ去りし時に思いを

一昨日、息子の妻が教えているピアノのお弟子さん達の発表会があった。
殆ど、幼稚園か小学生の子供達。
中に、中高生、大学生も混じっている。
そして、他から呼んだ中年のおばさん達(30代・40代)のコーラスと独唱が味を添えていた。
私は息子の妻のソプラノの声楽を聴くのが一番楽しみで、それを目標に毎年一寸だけ足を運ぶ。

子供達のあどけない、それでいて一生懸命に弾くピアノの音感に感動する。

そして思い出す。
私の小学校の頃、こんな平和な音楽会を催すような時代ではなかった事を。
日支事変中に生まれ、戦時体制の中で育ち、昭和16年・12月8日、第二次世界大戦に入って行った。
四年近く負け戦の中で私の父も33才という老召集兵としてとられ、5人の子、老父母と、妻を残してフィリピン、ルソン島で、20年6月にのたれ死にした。
戦病死となっていたが当時の戦病死はすべてのたれ死に。
私はこの事を思う度に胸が痛い。
父の最後の様子はどんなだっただろう。
何を思っただろう。
妻と子、10才以下の5人の子供と老父母の事がきっと心に残ったまま息が切れたに違いないと思う。
可哀そうな父、33年の生涯、しかも知らぬ土地で何も口にする物が無い中で死んでいった父。
お父さーん、お父さーん、お父さーん・・・・。
一番下の弟は八カ月しか一緒にいなかった。声も知らずに顔も分からない。
写真をじっと見ている姿に私は戦争そのものを心からいつも憎む。

今はほとんどの家にピアノがあって練習しているらしい。
平和とは本当に有り難い。
私は女学校(当時は)へ入学した時にも代表として「誓いの言葉」を読んだ。
そして6年経って卒業する時には代表として答辞を読んだ。
色々な事を思いだしながら。6年間の楽しかった事、苦しかった事、様々を読みあげつつ、ふと目の前の校長先生の顔に目を移すとうっすらと涙が光っていた。
毎年こうして卒業生を送るのだろうけど、私達は学校制度の変化のドサクサで6年間という時間をこの学校で過ごしたせいか、愛着は、どの年の生徒より強かったようだ。

ずーっと並んでいる先生方、地方の高校としては(疎開や焼け出されたり引揚者等が居たので)優秀な教師に出会えた事は幸だった。

その時私は胸につき上げてくる感情にぐっと来た。
飛び跳ねながら渡った廊下、表玄関の桜の花、校長室、職員室、医療室、教室もすべて我が家同然、小使室まで懐かしい。

そうだ、今この瞬間だけだ。
もう再びこうして全員揃って並ぶ事は絶対にあり得ない。
とても貴重な瞬間だ。と胸いっぱいに感情が込み上げてきた。
昭和27年3月、独立国になったばかりの第一回の卒業生だった。

私は以後60年間一度も行った事がない。

流れ去る年月の愛おしさ。

10代の後半、思う存分学び、そして遊んだこの学校の思い出は何十年たっても実に新鮮で昨日の事のように鮮やかである。

でも現実はもうすでに何人かの親しかった友人が旅立ってしまっている。
生きている者の宿命だけど。

私に残された人生のラストタイムを大切に大切に生きて行こうと胸の中は未だ希望でいっぱい。

他の皆様も人生のスタートラインを共に走った者同士、是非近況などを教えて下さい。



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