2012年10月13日土曜日

『負けて勝つ』を観て

NHKドラマ『負けて勝つ』が終わった。
私は、仕事の都合で午後9時ピッタリには
観られないので、9時20分位から観ていた。

吉田茂は、昭和40年代に亡くなった方なので
私は、本物を知りすぎている。
ドラマの主役に、お気の毒ながら“一寸違うな”
感ずる事が幾度もあった。しかし
雰囲気は、ドラマとしてはよく出していたと思うが。

そんな事より、マッカーサー元帥が着任し、
事実上の日本国のトップになった。
東京をはじめ、全国各都市の焼け野原の中から
日本国を独立国にするには どうすればよいか。

直接は誰も分からなかった。
自分が生きるのに精一杯だった。
東京裁判があり、皇室の存在、
天皇陛下はどうなるのか、誰にも分からなかった。
そして、背の高い堂々としたマッカーサーと、
日本人の背の低い天皇陛下が並んで立った写真は、
全国民に大きな衝撃を与えた。

東京裁判も一段落し、とにかく日本人のトップを
誰にするかという事が難しかった。
皇室の人でもピッタリせず選び抜いた揚句、
吉田茂に一応落ち着いた。
しかし総理大臣と云えども、その上に
マッカーサーがドント座っている。
何を決めるのもマッカーサーなしでは進まない。
皇室の問題、憲法の問題、
外交は全てアメリカの 手中にあった。
(外務大臣は不必要)
セリフの中に
「こんな優秀な外交官を相手にするなんて難しい。」
マッカーサーに云はしめたほど、
吉田茂は、全知全能をかけて日本の独立へ向けての
キツイ、長い坂道を歩み続けた。

元々、この戦争にも反対論者であった吉田茂は、
外国の事を充分理解していた。
だからこそ、反戦論者だった。
昭和天皇とも、マッカーサーに会うチャンスを作り、
昭和天皇の本心の考え方をマッカーサーに
伝える事にも努めた。
日本から皇室をとったらどうなるか、
吉田茂は心得ていた。
一日も早く、独立させるべくあらゆる手段を講じた。
そこに、次郎という男が出てくるのだが、
これが白洲次郎で、吉田茂を陰に陽に助けた。

白洲次郎と云うと、すぐ思い出すのは、
テレビの中でも出て来たあの 長い長い長文の
独立宣言書の事である。
吉田茂は、英文で云うつもりだったが、
白洲次郎に一喝される。
「これから独立して、世界の中で
一人前になるというのに、その宣言を
なぜ英文で書くのか、書き直せ。」と
みんなに命じて急遽、紙と筆を用意して
手分けして日本語に書き直した。
長い長い巻紙の日本の独立宣言の文章は
ものすごい大きいトイレットペーパーか
と云われたりしたらしい。

それはともかく、このテレビは立派なものだと
私は思う。
日本がどのようにして敗戦国になり、
どのようして独立国を勝ち取ったか。
多分日本人の50才以下の人間は
ほとんど知らないと思う。

地球上に沢山国家はあるけれど、
みんな夫々好い国ばかりではなく
苦い苦しい思いをして成り立っている。
日本史も明治維新までは教科書で
習った人が多いと思うが、
肝心の現代史は、 
一寸おろそかになりすぎている。

過去の歴史を知らずして、
将来の展望は立てられない。

更に私が感じた事は、戦後復興させた
政治家は、みんな一流だと感じた。
それに比べて現在の内閣はどういう事でしょう。
何かの週刊誌の表紙に
《 このひどい政治家たち 》 という文章が
ありましたが、まさしくその通りだと
今回の『負けて勝つ』を観てその感を強くした。

心の底から日本の国家の事、国民の事を
考える政治家は、必ず何かを残してくれる。
どうでしょう、現在私は、一庶民ですから
これ以上は書きませんが、
もっと、もっとレベルアップしてほしいと
心から念じます。





吉田茂 像(東京・北の丸公園)











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2012年10月6日土曜日

土地は大切。しかし、それがすべてではない。

私は、20才代前半に夫と共に
誰の指導も受けず商売をスタートさせた。
その時は、日本国も上り坂。
やがて世界第2位の経済大国になる
直前の事であった。

又、夫は、次から次へとアイデアを
生み出す人だったので、何でも出来るという
自信とまで云えなくとも、やらねばならないという
意志の強い人で、ブレーキになるのは
10才年上の長兄一人であった。

しかも、生まれ育った土地でなく、
全く未知の横浜という場所で
仕事をはじめるには、不足する事が
非常に大きかった。
そういう向う見ずというか、恐れを知らぬ年代で
次から次へアイデアを具現化するのに
全く躊躇する人ではなかった。

業界の中に性格的に非常に合う人がいた。
一晩中話し込んでもまだ足りないという位、
次から次へと新しい考えを、まるで喜んで
子供が遊んでいるような姿であった。

50才代で病気になるとは思ってなかっただろうし、
30才代の頃は、未だ何度でも取り返しがつくと
考えていた。
そして、いつも今は大きな目的のための
仮の人生だ位に思っていたようだ。

私とすれば、自分の住居くらいの土地は
欲しかった。 特に、瀬戸内海の穏やかな海辺で
生まれ育った私の実家は、ここも,あそこも
こっちもあっちも自分の土地であるような
所だったので 。

東京の伯父の姑に力になってもらって、
いまの土地を借用した。
伊勢佐木町通りの店は、
戦後すぐ建ったバラックが並んでいたような
時代だったので、仕事が大きくなるにつれて
従業員も増えてくるし、どうしても店から
雨が降っても 走って帰れる位の場所で
土地を探した。
主人は、親からの資産を当てにして
金はあるのだからと思い、買いたかったらしい。
しかし、この一帯は、二人の大地主の
息のかかった土地ばかり。
聞けば借地というのも香川県で考えるのとは
大違い。ほとんどの人が借地店舗だった。
借地というのは、普通の事だと分かったけど、
それでも自分の土地が欲しかった。
又、当時のイセザキ書房の成績は、
その位の上り坂の時だった。

今、55年経ってみて、土地はすべての
基本になっているなと思わされる事に
度々出会う。
もう今更、私一人になって土地を買おうという
必全盛はなくなったけど。
香川県の土地とは比較すべきではないが、
自分の土地が一坪もないというのは
何かあると心を痛める。
駐車場の空きを気違いのように
歩いて歩いて探している自分の姿が
とても虚しかった。駐車場もほとんど
コインパーキングになってしまった。
あの方が、儲けがよいらしいが。
車一台の置き場所の事でオタオタする
自分自身を笑ってやりたい。










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2012年9月29日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その2

私が生まれた年に名和家は、本宅を新築した。
今ある家は、私と同い年令。
随分お金をかけて作った家だと思う。
80年近くしっかりしたもの。
大黒柱は、大人二人の両手の長さの円。
玄関は桜、廊下は檜。

父の母(祖母)も大した女で、新築の途中も
「ナカさんにはかなわないよ。」と云われる程の
口八丁手八丁の女だった。
結婚が決まった時、夫になる人には
男女併せて十人くらい兄弟がいるので
「これは小姑にやられるよ。」と云って反対された。
「私は、誰にも何も云われないだけの仕事を
するから何も怖くない。」とタンカを切って
結婚に踏み切ったようだ。

確かに、祖父は正装(和服姿)をして
帽子をかぶって出掛ける時、
出会った人が振り返る程、紳士
素敵な人だった。祖母も魅かれていたのかもと
私は思う。

美男美女の頭の切れる夫婦だったけれど
なぜか子供に恵まれなかった。
長女の竹子は3才の時、病名も分からず
下痢をして一晩で医者も驚く程、
あっけなく亡くなった。
「竹子はきれいだったぞ。」と
一度、祖父から聞いた事があった。

二女は、結婚して二人目の子供を産んだ時、
産後のヒダチが悪くて死んだ。
生まれた子供は、大変な大店の呉服屋へ
こわれて養女にやった。
これも4才の時、一晩の高熱でそのまま
死んでしまった。

更に、その上に、生まれていた男の子は
私と同じ位の年令で、ハンサムボーイで
あったのに、自動車事故で20才前に亡くなった。

そして、たった一人の長男(私の父)は、
33才で出征し、36才で戦病死。
両親より長く生きたのは、
末っ子のユキ子だけだった。

高松の空襲で焼け出され、津日へ来て
名和の田んぼで百姓をしていたが、
軍人であったユキ子の夫が、復員して来てから
高松へ戻った。子供は三人いた。

さて、私は、昭和8年に生まれてから、
妹・妹・弟・弟と兄弟が増えていった。
そう、あの頃だった。一番幸せだったのは。

末弟が、昭和18年に生まれ、
祖父母・父母・兄弟5人、9人家族になった時。
又、食事は、祖父は別膳で、
残り8人は大きな食卓を囲んで、
末っ子は父のひざの上だったか?
楽しい楽しい夕食だった。
70年経った今でも、あの頃の事は
嬉しい、嬉しい、嬉しくて涙の出そうな思いである。

戦争が長引くにつれ、物不足時代に入っても
私の家は田んぼの年貢が入り、
漁業の売り上げが入り、特に困る事は
感じなかった。

私は、学校の成績だけを一番気にして
級長になり、一番になり、勉強をすることが
楽しくて楽しくてたまらなかった。
文房具も不足がちだったが、知り合いに
文房具やがあり、何も不便しなかった。
私の兄弟で、父方に似た者は美人。
母方に似た者はブス子ちゃん。
私は、残念ながら後者であった。
教科書は、暗記する程読むけれど、
それ以外の本が読みたくて、あちらこちらと
借りていた。新刊などほとんどなかった。

祖母もあちこちから借りてきてくれた。
そして、夜寝る時に毎日お話をしてくれた。
私は、それを聞きながら眠りについていた。
おとぎばなしは、ほとんど祖母から聞いた。

母が特別に読んでいた『主婦の友』なども
私は読んでいた。

入学したのは小学校。
戦争が始まり国民学校と呼ぶようになった。
そして、卒業する時は敗戦国だったので
又、小学校。総代で卒業した。

その頃、5年・6年生を受け持ってくれた
原井先生という女教師が、国語に詳しく
作文をよく書かされ、発表したりさせられた。
又、『宮本武蔵』とか、古本屋で借りてきて
読んでくれたり、私が作文が好きになったのは
原井先生のおかげ。でも、体育はダメ。
薙刀を振らされたけど教える先生の方が
下手だから全く面白くなかった。

そして、戦争は終わったけれど平和ではない
少女時代だった。
素人百姓の田んぼを手伝いさせられ、
田植えも稲刈りも 麦蒔きも草取りもした。
田んぼに入れる肥やしも、私は母を手伝って
運んだ。私よりもつらかったのは母だったと思う。

母は、船の管理も祖父に代わってやるし、
田んぼも荒らしたままおくわけにもゆかず、
朝から夜まで働き通しだった。

そして祖母も、もう目がそろそろ見えにくくなり、
その治療をする医者がなく、赤十字病院へ
入院したりしたけれど、良くはならなかった。
そんな体調でも、私達の食事の準備は全部する。
当時は、私の家は、未だ木で炊くおかまの
時代だったので、その木を割る仕事も、祖母は
やっていた。目が見えなくても感の鋭い人だった。
祖母は、歩いて4~5分の所へ嫁いでいるので、
新婚旅行などとんでもない。
でも神様は、この働くばかりの老夫婦に
旧婚旅行を授けてくれた。

大阪の叔父が、祖父母を京都・奈良の
神社仏閣に全部連れて行ってくれた。
祖父母にとっては、最初にして最後の大旅行
だったと思う。1週間以上も家をあけるという
事も又。
祖母は、仏教に非常に熱心な人だったので
毎日拝んでいたのを私が覚えてしまうほど
だったから、この上もなく嬉しかったと思う。

父母は、どうだったのだろう。
きっと、何もなかったように思う。
小さな旅行でもあって欲しかった。

さて、次回からは、私の女学校時代へ入ります。







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2012年9月20日木曜日

何か何か物足りない

毎日のように竹島(対 韓国)、尖閣諸島(対 中国)の
ニュースが新聞にもテレビにも出てくる。
竹島は、さておくとして、尖閣諸島については
私のような庶民には詳しい事は分からないけど
お互いに大変な被害を出している事はよく分かる。
直接的、更に間接的にもお互いに
なぜこんな事をしなくてはならないのだろうか?
毎日毎日思っている。
でも、そのうちに総理 直々にとか、
それに匹敵する人材を送り込んで
まともになるだろうと思っていた。

しかし、日々を
おう毎に
炎は、ますます燃えて広がる一方である。
単に、日本とのの問題だけでなく、国内の不平不満も
重なり重なって来ているようにも思えるが。
他人様の家のもめ事に手出しするような事はできないが、
少なくとも、尖閣諸島については、
間違いなく 日本領土である という事を
総理が世界中に分かるように大宣告するべきだと思う。

こんな事態になってもどの国からも
手を差し伸べてもらえない程、
現政府は、外交をやっていないんだなと私は思った。
現総理の手に余る仕事なのかも分からない。
唯、唯、消費税一点張りの政府ですから。

でも、この消費税についていえば、
私もつい先日 、一年間分を支払ったばかりですが、
それを支払いに行った時、窓口の人に云われた。
「これをちゃんと払っていない企業が多いんですよね」と。
前にも同じような事を他で聞いた事がある。
私の場合   は、税理士さんが厳しいので、
「○月○日までに必ず払って下さい」
という言葉があり、私はその云われた通りやらないと
次の仕事に移れない性格なので、
手前のものから、手前のものから仕事を片付けたいので、
支払うべきものは、ばっちり払っておかないと
前進出来ないのである。

だから、総理の計算通りに納付されず、
不景気だけが現実として出てくるだろうと思う。
私のような一庶民には詳しい事は分からないけど、
現総理は国民から見ていて、何か物足りない事が
多すぎる。
悪い事は何もないんだけど、国民の気持ちに沿って
もらえないと云うべきか。

私は、日本の国に、もっと外交、その他に秀でた人が
いないはずがないと思う。
出てきてほしい。
国民への愛情を傾けてくれる総理大臣が。
そうしないと、日本は東洋の端くれの島に
なってしまいますよ。




尖閣諸島

 





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2012年9月15日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その1

 そうだ、もうあれから半世紀半。
私は、瀬戸内海のおだやかな海辺で
大網元の若い夫婦の長女として生まれた。
母は、20才そこそこで23才の父と結婚。
私は、父の両親・母の両親と
四人の祖父母にかわいがられ
幸せな赤ちゃんだった。

しかし、三人も続けて女の子ばかり生まれて
三番目の妹の時は、見にも来てくれなかった。
その妹が一番やさしくて、一番きれいで、
70才過ぎた今も旅館の女将をやっている。

フィリピンでの敗戦の年、昭和20年6月、
ルソン島で戦病死(野たれ死に)した父は、
33才で召集令状を受け、
昭和17年11月、我が家と大きな仕事を
残したまま終に、一度も帰らず、
どんな死に方をしたのかも分からず、
唯、戦病死という知らせがあったのは
私が、女学校の一年生の時だった。

私は、妹二人・弟二人の五人兄弟。
親類の人から 
「吉光さん、絶対生きて
かえらないかんよ。」
とみんなに云われる度に、
「こんな五人の子供や、老父母を残して
死ねるものですか。生きて帰りますよ。」
と云っていた。
しかし、実際は、訳の分からぬ死に方で、
ただ、フィリピンのルソン島にいた
兵隊の中の一人であった事しか分からない。
物々しい白木の箱が帰って来たが、
空けてみると、[名和吉光の霊]と書かれた
紙切れが一枚、入っていたのみ。

ひどい、本当にひどい。
私は、今でも父を殺したのは誰かと
探し続けて60年。運命であったと
自分自身に言い聞かせる事は、今もって
不可能である。

上の弟は、父と別れたのが3才の時。
未だ、高松港から宇野まで連絡船の時代であった。
父が連絡船に乗り込み、船が動き出した時、
「お父ちゃーん。行っちゃいや。お父ちゃん帰ってきて。」
と泣きながら桟橋の端まで追いかけて行った姿を
私は、一生忘れる事ができない。

蟹甲湾の中の漁業権をいくら持っていても
70才に近い祖父にはやりきれず、
知り合いに権利を貸してしまった。

父の両親は、いずれもしっかり者同士で、
そこへ嫁に入って来た母は、若くして大変苦労した。
祖母が、あまりにも頭が切れる人なので、
何から何まですべて祖母が仕切り、
母は、その手伝いをさせられていたのかな。

私が母を思い出すと、いつも洗濯している姿、
縫物をしている姿が浮かんでくる。
今、この年令になっても。

長女だからという事で、
私の初めての時着(秋祭りに着用する)は、
祖母が、品物を決め、母の縫い方では気に入らず、
母は、針仕事の稽古に神戸にいる姉のところへ
一ヶ月間位、教えてもらいに行かされたらしい。
神戸の伯母さんは、花道・茶道・習字・琴など
何でも師範格の腕前の人だった。
小さい時、士族の家へ養女にやられ
相当仕込まれたらしい。
私もこの伯母が、私の家の近くへ疎開して来た
10年間位の間に、花道・茶道・書道を教えてもらった。

非常に、難しいシュート・シュートメに仕えながら
5人の子供を生んだその直後、
下の弟が、生後10ヶ月の時、夫である私の父は
召集兵として家を出たまま帰らぬ人となった。
思えば、母の夫婦生活は、
決して不幸ではなかったけれど、
気遣いは大変だったと思う。




 
フィリピン ルソン島 戦没者慰霊碑



* 今後も不定期に掲載してゆきますので、お見逃しなく。 *






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2012年9月8日土曜日

みんなみんな独立しよう

時はどんどん流れ去る。
私独り 昔のままのような気分でいても周囲は様変り。
スターという存在があるのかどうか分からないけれど、
歌手の歌っているのをテレビで観ても全く分からない。
みんなみんな孫世代。

そして、私の知っているスターは、
いつの間にか歳を重ねて、もうスターではない。
さだまさし という歌手は、何歳か分からないけれど
昔のような気分で観ていられる一人。
それから、黒柳徹子さん。
年を重ねているけれど、まだまだスターである。
「二十四の瞳」で高峰デコちゃんが登場した頃の
日本は、とても素敵だったなぁ~。
もう一度、もう一度、あんな日を迎えたい。

さて、大阪を都にするとかという案が出ているが、
都は、日本の国で一か所でなくてはいけない。
そうでなければ、都の意味がない。
私は、郵便物を出す時に、常に、
” 都 ○○区○○町○○番地 ”と書いている。

それよりも、大阪のみならず、各県が独立して
その地方、地方の特色を強く出し、
消費税くらいは、夫々各県の裁量で
使えるようにする事がより大切だと思う。

北海道と九州では、風俗習慣もさる事ながら
生産品、特に食べ物が大きく異なる。
同じさんまでも味の違う事を
私は知っている。

夫々の県が、特徴を打ち出し
自分達の事は、自分達でまかなう方が
合理的だと思う。
ひとつひとつ、夫々の各庁へ各県から出向いて
お願いするというのは、止めた方がよい。
そうすれば、各庁の人間の数も減らす事が
出来るし。威張り散らす形もなくなるだろう。

地方議員が、中央省庁で頭を下げる必要もない。
夫々が夫々の良さを打ち出し、PRしてゆく事によって
更に優秀な生産物が生まれてくる。
それは、日本国全体にとって、とてもよい事だと
私は思う。

私は、四国瀬戸内海の海辺に生まれ、
20才で結婚して、神奈川県(横須賀・逗子・横浜)で
生きる羽目になった。いずれもいい所がある。
こういう形を全国的に考えてゆくのは
素晴らしい事ではなかろうか。

繰り返して云う。
都というのは、日本に一つだけあるからこそ、
都の価値がある。
夫々の県が、日本全体のレベルアップになると思う。
日本語をしっかりと身に付け、使いこなし
間違えぬようにするには、
沢山 本を読む事から始まる。

2~3才頃から、絵本・紙芝居で、
少し大きくなれば、物語を読む。
そのうち、本の楽しさが身に付いてくる。
そうすれば、もう、しめたものだ。
日本人が、本物の日本語を知らずに
何が国際性か。

繰り返して云う。  
都は、一つだけだから都の価値があるという事を・・・。










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2012年9月1日土曜日

野田総理へお願い

野田総理様。
政治生命をかけて消費税アップを計るとの
ことでしたが、一年間の間に野田総理の
おやりになったお仕事はそれだけでしたね。

私のような下々の庶民には詳しい事は
分かりませんが、大体、マスコミの報道による
成果としてはそれだけしか私には分かりません。

何も分からない庶民にとって、
尖閣諸島も竹島も日本の領土でありながら
隣国にのし上がってこられても
総理は、ちっとも動こうとなさいません。
なぜなんですか?

尖閣の次は、沖縄かも。
竹島だって他にも理由はあるかも分かりませんが
大統領に勝手に入ってこられても
総理は、なにもなさいません。
なぜですか?

又、北方領土だってあります。
島は小さいけれど、一大漁場である事を
私は知っております。日本の鮭鱒漁業は、
おかげで姿を消してしまいました。

日本にとっては、大損です。
樺太は、通して当然としても、
北方領土は、元々日本領土ではありませんか。
北からも西からも南からも領土が
危なくなっているのに、
総理は、どう考えていらっしゃいますか?

消費税アップに政治生命をかけるなら
領土を守る事に本当の命をかけるべきです。
もし、手に負えないならさっさと解散して
力のあるリーダーに変わって下さい。
外交の出来ない総理なんて、
国民は安心していられません。

アメリカの大統領選の演説を
聞いていると (テレビで)
私は、充分英語は分からないのに
つい立ち止まって聞いてしまう程、
人を惹きつけるスピーチです。
政治家に必要なもののひとつに演説があります。
ご自分の意思、意見を国民に知らせる
義務があります。

私は、一度も野田総理のスピーチに
魅せられた事がありません。
残念です。

消費税を上げても、国の収入は増えません。
ますます、不景気になって
つぶれる店や企業も出てくるでしょう。
総理は、商売人ではないから
本当の庶民の生活を知らないから
勝手に云われるままおやりになった事と
思いますが、これは、景気浮揚ではなく、
国民を泣かす事です。

どじょうなんて大嫌いです。
せめて、うなぎか鯛か鱸が、私は大好きです。

「間もなく解散」なんて、
そんなに 総理の椅子に未練がありますか?
国民の幸のために、総理の椅子をおりて下さい。
お願いします。

― 庶民より。




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